【ワビ、サビの心を持った英国人作曲家】ジェラルド・フィンジの一生

2018/06/21
人物

あるときは古典をひもとく読書家、またあるときは作曲家、そしてまたあるときは希少種のリンゴを救う栽培家。その実体は、英国人作曲家ジェラルド・フィンジ(1901-1956)。近年、国内ではフィンジの、とくに『ピアノと弦楽のためのエクローグ(1929)』の人気が高まっていることもあり、あ、この曲聴いたことがある、とうなずく方も多いと思います。今回は、そんなフィンジの生涯と作品についてご紹介。

 

「喪失」の連続だった青少年期

ジェラルド・ラファエル・フィンジは1901年7月14日、5人きょうだいの末っ子としてロンドンで生まれました。しかし幸福な少年時代は長続きせず、わずか8歳のときに父が他界。やがて第一次世界大戦が始まるとフィンジ母子はハロゲイトへ疎開を余儀なくされます。学校に馴染めなかったフィンジは自宅での個人教授を受けて育ちますが、9歳にしてすでに作曲家になると決心していた彼は、アーネスト・ファーラーに師事して本格的に作曲を学ぶことに。ファーラーは、合唱音楽好きのあいだではわりとよく知られるアイルランド人作曲家サー・チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードのお弟子さんだった人でもあります。

しかしこの多感な成長期にフィンジは父につづき3人の兄に先立たれ、そして音楽を教えてくれた恩師ファーラーが1918年、西部戦線で戦死するという不幸にも見舞われています。後年、フィンジの息子クリストファーがこのように述懐しています。

「幼くして父親を失い、3人の兄もつぎつぎに亡くした。そんな父に深刻な打撃を与えたのが、恩師ファーラーの戦死だった」

ファーラー亡き後のフィンジは当時、ヨーク・ミンスターのオルガン奏者で作曲家だったエドワード・ベアストウに師事して作曲を学び、はたち過ぎに書いた室内管弦楽作品『セヴァーン狂詩曲(1923)』で注目されます。

 

アーネスト・ファーラー『英雄的哀歌  op.36(1918)』

 

英詩集に耽溺する日々

1933年、フィンジは画家のジョイス・ブラックと結婚。その4年後、フィンジ夫妻はイングランド南部ハンプシャー州のアッシュマンズワースという村に転居します。青少年期に身近な人の死を立て続けに経験したフィンジはきわめて内向的な性格の持ち主だったため、ロンドンという大都市には生理的に馴染めなかったと言われています。

そんなフィンジのほとんど唯一の心の慰めだったのは、本を読むこと。フィンジは幼少期から大の本好きで、英国文学、とくにトマス・ハーディ、エドマンド・ブランデン、ロバート・グレイヴス、シーグフリード・サスーンなど同時代人によって書かれた英詩集の蒐集家としても知られていました。英詩をはじめとする彼の英文学の蔵書は3,000冊以上もあり、現在、レディング大学のフィンジルームに収められています。そんな愛書家フィンジは、親しんでいた英詩の一節に曲をつけた歌曲集を数作、残しています。

フィンジの作品に『悲歌  ニ短調 「落葉」(1929)』という管弦楽曲がありますが、この「落葉」という曲名は16-17世紀の古い鍵盤楽曲を集めた『フィッツウィリアム・ヴァージナルブック』のマーティン・ピアソンのアルマンドから採られたもの。古楽に対するフィンジの並々ならぬ関心をうかがわせる作品と言えるでしょう。

 

歌曲集『大地と大気と雨と  Op.15 』

 

イングランド産リンゴ品種を絶滅の危機から救ったフィンジ

田舎暮らしを始めたフィンジはあるとき、イングランド原産のリンゴ品種が激減していると訴えるラジオ放送を聞いてたいへん心を動かされます。さっそくそのラジオの声の主であり、建築批評家でワインと食に関するジャーナリストでもあったモートン・シャンドに手紙を書き、残存リンゴ品種の保護と品種改良にみずから乗り出すことに。フィンジらのリンゴ栽培家グループの努力により、当時絶滅の危機に瀕していたイングランド原産リンゴ品種はからくも守られ、フィンジは生涯、特有の風味のあるイングランド産リンゴの品種保全に情熱を注ぐことになります。フィンジとともにイングランド産リンゴ品種を守った仲間には、のちにロイヤルフェスティバルホールを設計した建築家のサー・ジョン・レスリー・マーティンも名前を連ねていました。

いっぽうでフィンジは当時、ジョン・スタンリーなど、なかば忘れられていた18世紀の英国人作曲家の作品の研究に打ちこんでもいます。研究対象にはこれまた英国合唱音楽好きには聞き覚えのあるチャールズ・ウェスレーも含まれていました。こちらの蔵書は現在、セント・アンドルーズ大学に収蔵されています。フィンジにとって、希少な英国のリンゴを救うことと、これまた人々の記憶から消えかけていた過去の英国人音楽家の作品を掘り起こすことのあいだには、ちがいなどなかったのかもしれません。この間、彼は自身が再発見した18世紀の作品や同時代の作曲家の作品を演奏する団体として、ニューベリー室内弦合奏団というアマチュア主体の楽団を結成してもいます。

 

ジョン・スタンリー『トランペット・ヴォランタリー ニ長調

 

病魔と戦いながら音楽にすべてを捧げた晩年

青少年期に身近な親族や恩師の死に見舞われたフィンジは、こんどはみずからの「死」に直面することに。1951年、ホジキンリンパ腫と診断され余命10年の宣告まで受けますが、彼は身内の者以外には病気を口外することなく、ますます創作活動に打ち込むようになります。

創作については、自分にとことん厳しかったフィンジ。作品によっては当初の構想どおりには日の目を見ず、一部のみが独立した作品として初演、ということがよくありました。現在、フィンジ作品と言えば『エクローグ』と言われるほど人気のあるこの作品も、もとはピアノ協奏曲の緩徐楽章として作曲されたもの。場合によっては作品そのものを廃棄することもあったフィンジの作品番号つき楽曲数は、わずか40曲しかありません。

フィンジがとくに好きだった分野は声楽で、とりわけテノールがお気に入りだったようです。そのためかフィンジは器楽作品より、教会音楽を含めた声楽・合唱作品のほうが多いのも特徴。アングリカンものなどの英国教会音楽好きならば、フィンジ最晩年のアンセム『神は高みへ  Op.27-2(1951)』を聴いたことがあるという人もいると思います。

1956年9月27日、ホジキンリンパ腫によって免疫不全に陥っていたフィンジは帯状疱疹と脳炎の合併症で逝去。享年55歳でした。

イングランドの自然は、おなじ島国の日本の自然と同様、季節の変化や移ろいやすさがよく似ているように感じます。フィンジの『エクローグ』はそんなイングランドの自然の移ろいやすさを、一篇の美しい抒情詩のように凝縮した作品。けっして人間嫌いというわけではありませんでしたが、イングランドの片田舎でリンゴ栽培家として生活していたフィンジには、日本語で言う「侘・寂び」の心情が通奏低音のようにその精神に流れていたのではないかと思わずにはいられません。そんなフィンジは創造的な芸術家とはいかなるものかについて、こう語っています——「芸術家は、自身を取り巻くうたかたの世界から岩礁を築く珊瑚虫のようなものだ。それははかなく、不確実な自身の生が終わったあとも朽ちずに長く残る、堅固な構造物である」。

 

フィンジ『ピアノと弦楽のためのエクローグ Op. 10』

 

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