クセナキスと構造

構造/現象――「メタスタシス」

真空のような無音に、コン、コン、と打楽器の無機質なリズムが響く。弱音で低い音調を奏でる弦楽器が、ゆっくりと、しかし確実に、音量とピッチを上げながら、グリッサンドで迫ってくる。コン、コン、打楽器は表情を変えることなく、徐々に凶悪な様相を呈する弦楽器のグリッサンドに、寄り添うでもなく、ただ鳴っている。弦楽器の緊張感がマックスまで高まったとき、まるで限界まで膨らんだ風船が炸裂するかのように、オーケストラが咆哮する……ギリシャの作曲家、ヤニス・クセナキスのデビューを飾る「メタスタシス」の冒頭です。この作品はいわゆる五線譜で書かれておらず、図形で音楽の流れを指示しています。大指揮者、ヘルマン・シェルヘンは、「メタスタシス」の楽譜を見たとき、「全く別のところから来た音楽だ」とこの作品を絶賛。シェルヘンはクセナキスに出会ってから2年後に没するまで、この特異な才能を世に知らしめるために奔走したと言われています。

そもそも、「現代音楽」が、クラシック音楽ファンと呼ばれている層――おおよそバロックから後期ロマン派にリスニングの力点が置かれている人たち――に、受け入れがたいもの、なんだか足を踏み入れづらいものとして受け取られてしまっているのは何故でしょうか?十二音技法やトータル・セリエリスムが分からない?この記事を書いている私だって分かりません。理論が先行していて音楽を楽しめない?じゃあ、バッハの「フーガの技法」は逆行や鏡像のフーガの理論を知らないと訳が分からないのでしょうか。そうじゃありませんよね。理論や専門用語なんて、どうでもいいのです。要は、「口ずさめるメロディーが存在しなくて、『聴きどころ』が分からないから」、この一点に尽きます。十二音やセリエリスムにメロディーがないのはもちろん、それらとは全く別の理論で作られているクセナキスの音楽にもメロディーはありません。じゃあ、どうやって聴くのでしょう?

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現代音楽にも色々あるので、ここではクセナキスにケースを絞りましょう。クセナキスの作曲方法は、数学の理論を用いるという極めて独特なものでした。で、理論はどうでもいいわけです。問題は、クセナキスが西洋音楽における伝統的な作曲方法を放棄することによってどのような音楽を目指していたのか、ということです。

クセナキス

クセナキスが意図的に放棄した西洋音楽の「伝統的」なクラシック音楽のオーケストラ作品(交響曲はもちろん、交響詩や演奏会用序曲、場合によってはオペラもこの際含みましょう)の大原則は、「主旋律」「対旋律」「伴奏」「リズム」の四層構造で基本的に成り立っています。人間の耳は訓練すると耳の位相を変えることが意識的にできるようになるので、ベートーヴェンの「第九」の4楽章のあそこのファゴットが良い、とか、シューマンの交響曲はいつもヴィオラが刻みをやっているな、みたいな話が可能になるわけです。ソナタ形式や変奏曲といったルールがあるのはもちろん、音響にも構造がある。西洋音楽の歴史は、構造の歴史です。上で挙げたような、「現代音楽が苦手なクラシック音楽ファン」は、この構造を無意識のうちに内面化しています。

クセナキスと現代音楽

翻って、クセナキス(を始めとした現代音楽)はどうでしょうか。「メタスタシス」の冒頭3分(10分と短いので全部聴いてもらった方が早いのですが)を聴けば分かる通り、構造、ないですよね。弦楽器のグリッサンド、かき鳴らされる打楽器、大暴れする管楽器群と、「分かって」聴こうとすると、これはもうダメ。質の悪い現代アートを見ているときみたいな気分になってしまう気持ちも分かります。ここで、耳を変えてみましょう。もう、分からなくていい。自分がここにいて、目の前でオーケストラが「鳴っている」という、「現象」に身を浸してみる。

不謹慎な話ですが、先日の台風19号がもたらした被害は甚大でした(私の家も水害に遭い、家の一部が未だに復旧していません)。私は、窓に激しく打ち付ける豪雨と凄まじい風に、クセナキスの音楽を想起しました。クセナキスが音楽でやろうとしたこと、それは「構造」でなくて、音の台風という「現象」なのです。もちろん、クセナキスの音楽は現代音楽の作曲家の中でも特に研究・分析が進んでいるので構造(非西洋音楽的な)はあるのですが、それは学者に任せておけばいいのです。分からなくていい。そこにいるだけでいい。弦楽器の強烈な刻みや、金管楽器の咆哮に耳を傾けてみれば、ベートーヴェンやバッハとはまた違ったクセナキスの魅力(恐ろしさ?)が見えてくるはず……。

ジャロンとメタスタシス

以下では、少しマイナーなクセナキスの管弦楽作品である「ジャロン」を取り上げます(クセナキスファンの方は「ジョンシェ」でも「ノモス・ガンマ」でも「シナファイ」でもないのでがっかりするかもしれませんが)、「暴力」と「密度」という切り口からクセナキスの魅力に迫っていきます。

視野狭窄、呼吸困難、鳴り止まない耳鳴り――「ジャロン」

私は、聴く音楽に自分の感情をシンクロさせます。落ち着きたいときはバッハ。勇気を出したいときはベートーヴェン。センチメンタルなときはマーラー。これは、クラシック音楽に限らず多くの音楽ファンが音楽を聴くときにすることだと思います。

では、クセナキスはどういうときに聴くのがベストなのでしょう。私は、「追い込まれたいとき」です。音楽は、楽しい時や悲しい時にだけ聴くものではありません。追い詰められたかったり、ときには音楽によってきつくなったりすることだってあるでしょう。ドMですか?と聞かれたら、そうなのかもしれません。そう、クセナキスの音楽は徹底してサディスティック。聴く人間を追い詰め、場合によってはいやな気分にさせ、終わったあとは息も絶え絶え、そういう音楽です。それは、クセナキスが意図してか意図せずしてか、リスナーに圧倒的な暴力を振るうかのようです。それは、台風のように、地震のように、自然災害のごとく聴き手の神経と精神を圧迫します。だから、クセナキスを聴いて楽しい気分になりたい!という方は、残念ながらこの記事を読んでもしょうがないかもしれません。そういうわけで、私の意図は、「でも、音楽で追い詰められる経験、してみてもいいんじゃない?」です。ホラー映画を観るようなもの、とでも言えばいいでしょうか。もしかしたらホラー映画より怖いかもしれません。

「ジャロン」は、1986年に書かれた室内管弦楽作品です。自身も現代音楽界のスーパースターであり、指揮者としても広いレパートリーで活躍したピエール・ブーレーズは、現代音楽の紹介に非常に熱心でした。しかし、クセナキスに関してだけは、この「ジャロン」しか指揮していません(ブーレーズの作品はクセナキスよりも官能的で、表現したいことがあまりに異なりすぎているというのもあったのかもしれません)。また、15の楽器からなっている編成も特徴的です。上に挙げた「メタスタシス」や「ノモス・ガンマ」が大オーケストラなのに対し、小編成による室内管弦楽作品というのもこの作品の特徴です。

「メタスタシス」は最初こそ大人しかったものの段々と音量が上がっていく様が独特の恐怖感を演出していましたが、「ジャロン」は最初から高音の木管楽器群と弦楽器の不協和音がフルスロットルでリスナーに襲い掛かります。
クセナキスを捉えるキーワードとして、「暴力」と「密度」を挙げました。この二つは相関関係にあります。クセナキスは、「メタスタシス」の楽譜を見れば分かりますが、オーケストラに限らずピアノや打楽器でも楽譜にどれだけ音が詰まっているか(空間を音響で満たす)に対して非常に敏感な作曲家でした。つまり、時間の流れという横の流れ――これは西洋音楽的「構造」の上では旋律によって表現されていましたが――に積み重なる音響という縦の線を導入する上で、数学という手法がクセナキスにとって有効な手段だったのです。
これは管弦楽作品に限らずピアノ作品などでも一貫していて、有名な「エヴリアリ」や「ヘルマ」は単純な四拍子で書かれているにも関わらず音響の密度の推移がよく分かる作品になっています。
そしてこれはクセナキスが意図していたかどうかは分かりませんが、彼の作品の密度が高い(楽器や音の数が多くなる)状態は、リスナーに言いしれない不安感や恐怖感を植え付けます。また、突然止まったかと思ったらいきなり爆音が襲うこともあるので全く気が抜けません。リスナーをいじめぬくクセナキスは、「暴力的」としか言いようがありません。「ジャロン」は、小編成ながら、クセナキスの暴力性と密度の推移をよく示している作品です。

「ジャロン」のもう一つの特徴として、執拗な繰り返しがあります。開始一分ほどで、木管楽器がゆらゆらとゆらめく弦楽器の上で同じパターンを高音で何度も同じパターンを演奏しますが、これは14分ほどのこの作品の中で形を変えて殆ど偏執的なまでに繰り返されます。この部分こそ、「ジャロン」の「聴きどころ」であり、もっとも怖い部分です。

それは、鳴り止むことのない耳鳴りのようです。視野が狭くなっていき、動悸が激しくなり、息が出来なくなって、耳鳴りは決して止むことがなく、誰にも助けを求められない、もはや打つ手なし……。それはまるで、パニック発作が起きたときの脳内のようです。14分に亘る地獄のような繰り返しの暴力と高密度で出力される音響は、聴いているだけで息が詰まります。この記事を書くために私も聴き返しましたが、毎回聴く度に辛くなります。それでも、何故か聴いてしまう。クセナキスの容赦ないムチに、痣ができるほど叩かれたいと思ってしまう。あなたはクセナキスを聴いたら最後、「ムチ」の虜になるでしょう。

おわりに

たまに、「音を楽しむから音楽なんだ」という人がいます。これは根本から間違っていて、音楽の「楽」は能や雅楽における打楽器を示す言葉であり、「楽」に楽しむという意味合いはありません。あえてその間違った線で言うなら、クセナキスの音楽は、全然楽しくありません。聴いてて、きつくて、追い詰められて、凄まじい台風の時に外に放り出されるような気分になって、「もうやめてくれ!」と言いたくなってしまう、そんな音楽です。でも、クセナキスを聴きながら、心のどこかで、これも悪くないかも……という、ちょっとマゾヒスティックな自分を見つけてしまうかもしれません。それこそが、クセナキスのオーケストラ作品の「面白さ」です。構造がなく、ただ暴力的な音響がリスナーを追い詰める、この痛々しい快楽と面白さに気付いたなら、もうあなたはクセナキスの手のひらの上です。今回は代表的な「メタスタシス」と少しマイナーな「ジャロン」を取り上げましたが、クセナキスはピアノ作品や打楽器作品も魅力的です。ここまで読んだなら、あとは聴くだけ。クセナキスの圧倒的な暴力性とマゾヒスティックな快楽に、身を委ねましょう。