アメリカツアー中のラヴェル。隣りの女性は歌手のエヴァ・ゴーティエ。右端にジョージ・ガーシュウィン。

NYタイムズによれば、20世紀初頭、第一級の旧世界(ヨーロッパ)の音楽家たちが、しばしばア メリカに来ています。その中でも、1928年にアメリカ各地でコンサートを行なったモーリス・ラヴェル(1875年 – 1937年)は話題の多い、特筆すべき人物だったようです。

1.  パリ郊外:1000万円越えツアーの誘い

そもそもラヴェルをアメリカツアーに誘ったのは、旧知の音楽仲間でピアニストのE.ロバート・シュ ミッツ(1889年 – 1949年)でした。シュミッツはパリ国立高等音楽院在学中の1909年、そして1918年にも、自身がピアニストとしてアメリカツアーをしています。そして地盤固めをしたのちに、アメリカにフランス系アメリカ人の音楽ソサエティをつくりました。それがのちにラヴェルを招くことになるプロ・ムージカという団体です。

1920年代にプロ・ムージカはアメリカ各地に支部をもつようになり、シュミッツはラヴェルをア メリカに呼んで、各都市でコンサートをする計画をたてました。最初ラヴェルはその案に消極的でした。「わたしはピアニストじゃないし。サーカスみたいに見世物になるのは一向に構わないけどね」と独特の乾いたユーモアで応じたそう。しかし1926年、シュミッツが2ヶ月間のツアーで10,000ドル(現在の価値で約1540万円)という破格のギャラを申し出たところ、ラヴェルはその額に驚き、最終的に申し出を受け入れます。シュミッツは5000ドルは、プロ・ムージカの15の支部から集められると目算をたてていました。しかし残りの5000ドルはどうするか。

するとシュミッツの妻のジャーメインが、アメリカのピアノメーカー、メイソン・アンド・ハムリンに話を持ちかける、というアイディアを思いつきます。ラヴェルのアメリカツアーで、独占的に メイソン・アンド・ハムリンのピアノをつかうという契約をするのです。当時、ポーランドのピアニスト、イグナツィ・パデレフスキ(1860年 – 1941年)が、スタインウェイのピアノでアメリカツアーをやり成功を収めていました。遅れをとりたくないメイソン・アンド・ハムリンは、自社のピアノのみをコンサートで使うことを条件に、5000ドル(現在の価値で約770万円)の契約をラヴェルと結びます。

さてアメリカ旅行をするにあたって、一つ問題がありました。ラヴェルはかなりのヘビースモーカー。カポラルのたばこなしで2ヶ月、3ヶ月は暮らせない、と主張します。しかしそんな大量の たばこを持ち込めば、税関で大金を取られるのは目に見えています。するとアメリカのたばこ会社が、カポラルと同じブレンドのものを、アメリカの工場で作ることに合意。好みのうるさい作曲家は、めでたく好きな嗜好品(好みの銘柄のワインも受け入れられた)と、アメリカの旅ができることになりました。

ツアーは最初2ヶ月の予定でしたが、最終的に4ヶ月近くまで延びます。滞在は 1928年1月4日~4月21日。主な訪問先はニューヨーク、ボストン、シカゴ、クリーブランド、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、シアトル、バンクーバー(カナダ)、ポートランド、デンバー、カンサスシティ、デトロイト、ニューオリンズなど。フェニックスではグランドキャニオンにも行き、ラヴェルの好きな作家エドガー・アラン・ポー(1809年 – 1849年)のブロンクスの家も訪問したとされます。

アメリカ訪問前、ラヴェルは健康状態がすぐれず、医者や友人たちはそんな過酷なツアーでからだを壊さないかと心配しました。実際、アメリカを横断するこの旅では、夜行列車に乗って移動することもたびたびあり、また北から南へ、東から西へと、暑さ寒さが極端にちがう気候帯を行ったり来たりもしました。しかしラヴェルは、「寒い」「疲れた」と多少の文句は言ったかもしれませんが、最後にはこの旅で自分は元気になったと上機嫌でした。「こんなに元気で旅してるとはびっくりだな」「わたしはやられちゃいない。確かにこれほど馬鹿げた旅は初めてだけどね。 なのにどうしてこうも元気かって?こんな風に理にかなった生活をしたことがなかったからだよ」などと友人たちに手紙を送っています。

左:モーリス・ラヴェル。モンフォール=ラモーリーの自宅で(1928年)。
右:E.ロバート・シュミッツ。トーマス・エジソンと1920年にレコーディングをしている。 

2. 大西洋上:チェックのスーツでミニコンサート

あれやこれやで出発は遅れたものの、1927年12月末、ラヴェルは船でアメリカに発ちました。乗船したフランス号は大西洋横断をするフラッグ・シップ(全長220メートル、幅23メートル)で、 一等から四等までの船室があり、2000名の乗客、200名以上のスタッフと航海士を乗せることができました。蒸気で動くリッツかカールトンホテルかというこのフランス号は、速さと快適さが売り物でした。

ニューヨークに到着する前々日、一等船室の客のリクエストに応えて、ラヴェルはミニコンサート を開きます。おしゃれで知られ、この旅に57本のネクタイを持参したラヴェルは、この晩はタキ シードではなく、カジュアルな服を選びました。縞のワイシャツにチェックのスーツ、赤いネクタ イ姿で、『プレリュード』『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』を船専属の音楽家と演奏。の ちにアメリカツアーでも明らかになるのですが、ラヴェルのピアノの技術は、、、それほど高くは ありません。というか練習が足りてない。練習嫌いなのです。だからしょっちゅうつかえながら、 ぎくしゃくと弾きます。

翌1928年1月4日、フランス号はニューヨークに到着。ラヴェルのアメリカツアーは、音楽業界 を超えて当地で大きな注目を集めました。NYタイムズは「ラヴェル氏を歓迎する」という記事を 1月8日に掲載。ニューヨークはもちろん、その後訪れた各都市でもレセプション・パーティが競って開かれ(発明家エジソン夫人主催のパーティもあった/トーマス・エジソン:1847年 – 1931年)、メディアは特集ページを組んでその模様を報じました。

①:大西洋横断をするフランス号。
②:フランス号一等船室のホール(1912年)。
③:NYタイムズの記事(1928年1月8日)。

3. ニューヨーク:ラヴェル、化粧の厚塗りされる

1928年1月4日:弟のエドゥアールに書いた、ラヴェルの手紙から “Mon séjour à New York….”

NYCでの滞在では、ピアノを練習するわずかな時間すらないんだ。着いてすぐラングドン・ ホテル(12階建ての小さなホテルで、わたしの部屋は8階だった)に入ると、電話がなりっぱなしでね。ホテルの室内はいい感じで、花のバスケットとみずみずしいフルーツで歓迎 された。ジャーナリストたち(フォトグラファーや映像関係、漫画家など)が代わる代わる手紙やら招待状やら送ってきて、わたしのマネージャーが対応していた。日中はあっちこっちの招きやインタビューがあって、タクシーでニューヨークじゅうを走りまわったよ。 べったり2cmくらいの厚さのドーランを塗られて、映像に収まったりもしたんだ。

ラヴェルは1月8日までニューヨークに滞在。最終日、カーネギーホールで自作のコンサートが開かれそれに出席します。エジソン夫人の主催によるものでした。コンサートが終わると、指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーがやって来て、ボストンですでに予定されているコンサートの前に、別のコンサートで指揮してもらえないかと訊いてきました。それでアメリカ最初のラヴェルのコンサートは、ケンブリッジにあるハーバード大学のサンダースシアターで、1月12日に行なわ れることになりました。

カーネギーホールでのコンサートが終わると、ラヴェルはその足で 一旦ニューヨークを離れます。 タキシードを着たまま、ボストン行きの列車に乗り込みました。

4. ボストン:さて指揮の腕前は?

ラヴェルのアメリカでの最初の演奏契約は、ボストン交響楽団の指揮をすることでした。しかし ニューヨークでクーセヴィツキーに頼まれたことで、その前に、サンダースシアターで指揮するこ とになりました。1月12日に行なわれたコンサートのプログラムは、ソプラノ歌手のリサ・ロー マを迎えて、『スペイン狂詩曲』『ラ・ヴァルス』『シェエラザード』など。翌日の午後、ボスト ン交響楽団のシンフォニーホールでも、同じプログラムを披露しました。さらに1月14日にも、 同じプログラムで指揮棒を振ります。

=========================
プログラム
1928年1月12日(木曜)夜
ハーバード大学サンダースシアターにて

1928年1月13日(金曜)午後
1928年1月14日(土曜)夜
ボストン・シンフォニーホールにて

リサ・ローマ(ソプラノ)
モーリス・ラヴェル指揮 ボストン交響楽団
モーリス・ラヴェル作曲
クープランの墓

ラヴェルのオーケストレーションによるクロード・ドビュッシー作曲
サラバンド
ダンス

モーリス・ラヴェル作曲
スペイン狂詩曲
シェエラザード
ラ・ヴァルス

=========================

地元新聞はボストンでの演奏会のことを熱狂的に報じています

ハーバードでのコンサートについて:
チケットを求める客が、ロビーに長々と列をつくった。舞台の上のギャラリーに席を得た若い学生たちが、手すりから身を乗り出してラヴェルを待ち構えていた。レコードで聴くだけでなく、今ここで、作曲家自身の指揮による音楽を耳にできるのだ。ラヴェルの譜面台には、真紅のバラに飾られた緑のリースが掛けられていた。大学の学長クラスのお偉方が特別席を占めていた。長椅子の席はどこもいっぱいで空きがなかった。ラヴェルが舞台に現れると、聴衆は立ち上がって歓迎の意を表した。そして1曲演奏されるごとに温かな拍手を送った。コンサートの最後は拍手喝采の渦だった。それに応えるように、ラヴェルはオーケストラを紹介し、腕をひろげて感謝の意を聴衆に返した。これがムッシュー・ラ ヴェルのステージの閉め方だった。聴衆たちの熱狂的な声が、何度も何度もラヴェルをステージに呼び戻した。
(H.T.パーカー、1928年1月13日、ボストン・イブニング・トランスクリプトの記事より)

ボストン・シンフォニーホールでは:
ミスター・ラヴェルが指揮台に上がると、さっとオーケストラが立ち上がり、聴衆も戸惑い気味に遅れて席を立ち、歓迎の意をあらわした。聴衆はみんなコンサートの間、興奮気味だった。著名人への礼儀からというだけでなく、この地で14年間ものあいだ、ラヴェル のオーケストラ音楽は高く評価されていたからだ。演奏された音楽によって、また素晴らしいオーケストラを作曲家自身が指揮しているのを目の当たりにしたことで、熱狂は最高潮に達した。
(フィリップ・ホール、1928年1月14日、ボストン・ヘラルド)

ミュジカルクーリエ誌、ジャネット・コックスの評:
オーケストラの指揮者として、ラヴェルは最小限の努力で最大の効果を生む方法を知っている。大げさな動きなどこれっぽちもなし。どのスコアもラヴェル自身の解釈によって演奏され、新たな音楽性をめいっぱい発揮していた。透明で、理にかなった手法、ウィット と皮肉があり、編曲は効果的で、音楽的な感受性に溢れ、純粋な美への敬意に満ちていた。
(1928年1月19日)

ラヴェルの演奏に、聴衆は強い関心を寄せたようです。とはいえ、彼はプロの指揮者ではなく、「作曲家が自作を指揮している」、という認識に人々が至ったのも事実でした。

ハーバード大学サンダースシアター(1876年)。 

5. シカゴ:靴をめぐってドタバタ喜劇

ラヴェルは身長が低く160cmあるかないか、体重も40kg台という小男でしたが、劣等感の裏返 しなのか、あるいは美に対して完璧を求める性格からか、大変なオシャレ好きでした。ニューヨークに着いてすぐ荷ときを手伝ったシュミッツ夫人は、20 組ものパジャマ、何ダースものビビッドなシャツにチョッキ、これでもかというほどのネクタイを 目撃しています。この旅のためにフランス出発直前に届けられたタイは、アメリカでつけてみると 「1.5cmも長すぎる」とラヴェルが不満を言ったため、シュミッツ夫人が手を入れて短くしまし た。57本のネクタイすべてを!

一行はボストンから一度ニューヨークに戻ったのち(ギャロシアターでシゲティなどとリサイタルを開く。ラヴェルはピアノを演奏)夜行列車でシカゴへ。1月17日シカゴ到着。着いたとたん、ラヴェルの一挙一動を記者たちが追いかけます。翌18日は朝からシカゴ交響楽団との3時間にわたるリハーサル。つづいてクリフ・デュエラー(芸術家とその愛好家のためのクラブ、1907 年~)にてラヴェルのための昼食会。夜はコングレス・ホテルのゴールドルームにて、プロ・ムージカ主催のイブニングコンサート。ラヴェル、ジャック・ゴードン、リサ・ローマがラヴェルの作品を演奏しました。

=========================
プログラム
1928年1月18日(水)夜
コングレス・ホテルのゴールドルーム

リサ・ローマ(ソプラノ)
ジャック・ゴードン(バイオリン)
モーリス・ラヴェル(ピアノ)

モーリス・ラヴェル作曲
バイオリンとピアノのためのソナタ
博物誌
ギリシャの歌
ソナチネ
亡き王女のためのパヴァーヌ
鐘の谷(「鏡」より)
ハバネラ

*演奏順は不明。

=========================

シカゴヘラルド&エグザミナーの評(1月20日):
ラヴェルが公の場でピアノ演奏することを許せるのは、最上級の皮肉屋くらいではないか。 まあ、作曲家の演奏がひどいのは普通のことではある。ラヴェルが自分の演奏にお構いなしでも、誰も文句など言えない。

1月20日、オーケストラホールにて、シカゴ交響楽団を指揮。ソリストはリサ・ローマ。新たに 加えられたプログラムは、『ダフニスとクロエ』第2組曲。翌21日も同様のコンサートが開か れました。ところが、コンサートは何の説明もないまま、20分過ぎても始まりません。理由は ラヴェルがステージ用の靴がないと言い出し、みんなで大騒ぎして探しまわっていたから。ラヴェ ルは自分の納得したコーディネイトで舞台にあがることを主張し、一つでも欠けていれば人前に出られないと言います。判明したのは、ラヴェルのステージシューズは、次の訪問地クリーブランドに向かう列車の駅にすでに送られていたということ。リサ・ローマがタクシーで駅まで走り、 トランクの中を探して靴を見つけ出し、それを持ってホールに駆けつけます。コンサートは予定より30分遅れてスタートしました。

こんな風にラヴェルのアメリカツアーは、どこへ行っても歓迎と熱狂につつまれ、大成功を収めたものの、作曲家のちょっとした奇人ぶりもあって、おかしなエピソードには事欠きませんでした。 クリーブランド以降のラヴェルの旅のについては、また機会を改めて紹介したいと思います。

最後にラヴェル自身によるピアノ演奏の記録を。曲はアメリカツアーでも何度か演奏された『亡き王女のためのパヴァーヌ』。ラヴェルは1913年と1922年の2回、ピアノロールによる演奏の記録を残しています。これは1922年6月30日、ロンドンで録音された5曲のうちの1曲で、DuoArtピアノロール・システムを使用して、Aeolianのイギリスの子会社のために記録されました。そのときのピアノロールは、1965年と1984年に再現されレコード化されています。

ニューヨーク、カーネギーホールでの3月8日のコンサートの広告

主な参考文献:
“Bolero – The Life Of Maurice Ravel” (Madeleine Goss, 1940)
”Maurice Ravel: lettres, écrits, entretiens” (Arbie Orenstein, 1989)
“Maurice Ravel: a guide to research” (Stephen Zank, 2005)
“A Ravel Reader: Correspondence, Articles, Interviews” (Arbie Orenstein, 1990)
『ラヴェル』(ジャン・エシュノーズ著、2007年、みすず書房)
Maurice Ravel :https://www.maurice-ravel.net/index.htm
Gay Influence:http://gayinfluence.blogspot.jp/2011/12/maurice-ravel.html
この記事で使用している画像はすべてパブリックドメインです。 I believe all of these images I used in this article are in the public domain in Japan.