ブルグミュラー、もう一つの顔

2019/12/25
コラム(人物)
[最終更新日]: 2020/02/14
                       

ピアノを習ったことのある人なら誰もが知るブルグミュラー。なぜ今どき、この作曲家に興味を覚えたかと言えば、最近ECMからリリースされた『シューベルト:夜』というチェロとギターのアルバムに、ブルグミュラーの『三つの夜想曲』がフィーチャリングされていて、それが思いのほか印象的だったからです。

ヨハン・フリードリヒ・フランツ・ブルグミュラー :ドイツ生まれ。1806〜1874年。

 

シューベルトと「夜の曲集」

このアルバムは、チェロのアニヤ・レヒナーとギターのパブロ・マルケスによる企画もので、全編が夜をテーマにしたチェロとギターの曲で占められています。その第1曲、そして最終曲にブルグミュラーの『夜想曲第1番イ短調』が2度にわたって使用されていました。シューベルトの方は、ほとんどが歌ものからの編曲ですが、ブルグミュラーの夜想曲は、チェロとギターがオリジナルのようです。そのことも選曲の対象になった理由の一つだったのかもしれません。

シューベルトの編曲は、二人の演奏者自身によってなされています。当時シューベルトはギター伴奏でも歌曲を書いていたようなので、歌の部分をチェロに置き換えることは自然なことだったでしょう。また6曲目に入っている名曲『アルペジオーネ・ソナタ』は、アルペジオーネ(19世紀に作られた6弦の弦楽器。弓で演奏)とピアノのための曲で、ピアノをギターに、アルペジオーネをチェロに置き換えています。

 

 

アルバムの順番としては、2曲目がシューベルトの『夜と夢』(コリンの詩による歌モノからの編曲)、3曲目がブルグミュラーの『夜想曲第3番ハ長調』となり、その後シューベルトの歌曲からの編曲ものやアルペジオーネ・ソナタがつづき、最後の3曲がまた、ブルグミュラー(夜想曲第2番ヘ長調)、シューベルト、そして最初に戻って『夜想曲第1番イ短調』で終わります。つまりブルグミュラーに包まれたシューベルト、というわけです。

ECMのサイトでこのアルバムの解説を見ると、ブルグミュラーの『三つの夜想曲』は、「シューベルトの精神と(音楽)言語への反響(echo)と注釈・解釈(commentary)」として収録されている、と書かれていました。シューベルトは、ブルグミュラーが21歳のとき他界しているので、この解説はある程度当たっているかもしれません。音楽を耳にした印象でいうと、何も知らずに頭から聴いた場合、最初のブルグミュラーをシューベルトの曲、と思う人はいると思います。

アルバムの第1曲と最終曲に使われている『夜想曲第1番イ短調』を見てみましょう。チェロパートの方は、1ページに収まる長さです。ミーファミラーミ、ソーファミーで始まる第1主題(A)があり、その変奏のようなフレーズ(A’)があり、再度第1主題(A)に戻ったのち、イ長調に転調され第2主題(B)が現れます。要素としてはこの二つのみ。第2主題のあとイ短調に戻って第1主題、そして第2主題を前半同様に繰り返し、そのまま終わります。

非常に単純な構造で、音で聴いていてもそれは感じられます。しかし第1主題の控えめながら美しいメロディーラインは印象的で、シューベルトの楽曲の中にあって違和感を感じません。また主題の繰り返しは、ミニ・シューベルトを思わせるところがあります。ブルグミュラーという作曲家は、世に知れ渡るような大曲はないものの、ちょっとしたメロディーメイカーだったのかもしれません。

夜想曲3曲の中では、第3番がギターの音色や音の動きを生かし、全体としてギター曲らしいムードがあり、またメロディーも美しく、ブルグミュラー作曲と考えるとなかなか新鮮でした。

 

パリジャンだったブルグミュラー

ここでブルグミュラーと言えばまず挙げられる『25の練習曲』を改めて見てみることにしました。

楽譜はライプツィヒのペータースのもの(1903年)です(初版は1852年、マインツのショット・ミュージックより出版)。タイトルはドイツ語で『25のやさしい練習曲』となっています。しかし各曲のタイトルはフランス語が大きな文字で記され、ドイツ語と英語が付記されています。なぜフランス語なのでしょう。調べてみると、ブルグミュラーは26歳のとき(1832年)パリに移住し、67歳で死ぬまでそこで暮らしました。つまりドイツ移民のパリジャンだったのです。パリでブルグミュラーはフランス音楽の洗礼を受け、もとより持っていた軽やかな音楽性をさらに発展させたようです。

ブルグミュラーはピアニストでもあり、パリでピアノのためのサロン音楽をたくさん書き、いくつもの曲集を出版したようです。それと並行して子どものためのエチュードの作曲にも力を注ぎました。ピティナ・ピアノ曲事典の飯田有抄さんの解説によると、パリではピアノ教師もしていたとか。自分の生徒たちのために練習曲を書いた、ということだったのかもしれません。

日本ではかつてはバイエルを卒業したらブルグミュラー、という流れが主流でした。『25の練習曲』を見てみると、バイエルのレベルや音楽性を無理なく受け継いでいるように見えます。この曲集をヤマハ音楽教室が教則本としたことで、日本ではピアノ教育が始まった早い時期から、一般でも広く取り入れられるようになったと聞きます。アメリカの元音楽教師に聴いたところ、ブルグミュラーという名前さえ知りませんでした。

このように日本では広くブルグミュラーの名が知られ、たくさんの子どもたちがその練習曲を弾いてきました。しかし何となくですが、魅力のある作曲家というイメージがあまりありません。それはもしかしたら、よく言われる日本独特のピアノ教授法によって、ブルグミュラーがかたく、響きのない、押しつけたような音色で子どもたちに弾かれてきたからかもしれません。子どものとき以来、まったく弾いてみようと思わなかったブルグミュラーを、試しに2、3曲弾いてみることにしました。『素直な心』『アラベスク』『やさしい花』『アヴェ・マリア』など。印象は軽く単純な曲調・構成ながら、その分初級の子どもの手でも弾きやすそうで、また音楽性においても遜色ないと感じました。ただ、どれも古典的な曲想なので、今の子どもであれば、もっと現代的な曲も織り混ぜて練習した方がいいかもしれません。

 

才能あふれる弟の存在

ブルグミュラーを書くにあたって、Wikipediaを見ていたら、「弟のノルベルト・ブルグミュラー(1810年 – 1836年)も作曲家・ピアニストで将来を有望視されていたが、26歳で夭折した」という記述がありました。ブルグミュラーに作曲家の弟がいるとは知りませんでした。

そこで家にある『Baker’s Biographical Dictionary of Musicians』(第8版)を見てみました。すると[ Burgmüller, Norbert ]という項目があり、ヨハン・アウグスト・フランツの息子で、ヨハン・フリードリヒ・フランツ・ブルクミュラーの弟となっていました。父親と兄の項目はありません。つまり弟のノベルトが、最も音楽家として成功したということのようです。「ノベルトは卓越した才能の持ち主で、小さな頃から作曲を手がけていた」とも書いてあります。そして『交響曲第2番』を書いている最中、26歳の若さで死んでいます。その才能を認めていたロベルト・シューマンが、その第3楽章(スケルツォ)をオーケストレーションして仕上げ、ヨーロッパやアメリカで何度も演奏されたという記述もありました。

そこでApple MusicとSpotifyで、Norbert Burgmüllerを検索してみました。ブラームスやシューマンの曲と一緒に入ったコンピレーション・アルバムの他に、なんと4枚ものノベルトの名前を冠したアルバムが出ていました。最も新しい『Piano Sonata, op.8』は2018年のリリースです。他のアルバムも2010年以降のもので、内容はピアノ協奏曲や交響曲1番、2番など。ちょっと驚きました。もしかしたら、日本以外の国では、ブルグミュラーと言えばノベルトの名がまず出てくるのかもしれません。

 

父親はデュッセルドルフ市音楽監督、母親は歌手でピアノ教師という音楽一家にあって、長男のフリードリヒも、弟同様に音楽的才能に恵まれていたのでしょう。ただ兄の方は、ピアノのエチュードのみが後世でよく知られた作品ということになりますが。IMSLPには30曲近いフリードリヒの楽譜が収録されているものの、演奏の録音があるのは『25の練習曲』のみでした。

 

村娘のパ・ド・ドゥ

『25の練習曲』のブルグミュラーですが、もう一つ面白い発見がありました。バレエをよく知る人なら、『ジゼル』という作品をご存知だと思います。フランスの作曲家アドルフ・アダンの曲による人気のグランド・バレエです。世界の名プリマがこの作品を踊ってきました。この中の第1幕の有名な「村娘のパ・ドゥ・ドゥ」を、ブルグミュラーが作曲しているというのです。

「村娘のパ・ドゥ・ドゥ」は、村の若者男女がデュエットで踊るもので、バレエ音楽としてもよく知られています。第1幕の見せ場の一つとなる踊りで、このパ・ドゥ・ドゥのみがガラ公演で取り上げられることもあります。それをブルグミュラーが作曲していたとは驚きです。おそらくバレエ・ダンサーでも、このことを知っている人は少ないのでは。

なぜブルグミュラーがこの部分を作曲したのでしょうか。『ジゼル』がパリ・オペラ座の作品で、作曲家アダンがフランス人であったこと、ブルグミュラーが当時パリに住み、そこでかなり活躍していたことと関係がありそうです。『ジゼル』はオペラ座で1841年に初演され、ブルグミュラーの「村娘のパ・ドゥ・ドゥ」は、その時点で加えられたようです。

いろいろ調べていたところ、The Marius Petipa Societyのサイトに面白い記述がありました。ナタリー・フィッツ・ジェインというパリ・オペラ座のバレリーナが、『ジゼル』初演に際して、自分の踊りを追加して欲しいと主張。当時ナタリーはオペラ座の有力パトロンの恋人で、その影響力を行使してその案を通しました。ところが作曲家のアダンは、そのときそれを請け負う時間がなく、振付家は他の作曲家を探す羽目になります。そしてブルグミュラーの『レーゲンスブルクの思い出』を含めた楽曲が追加され、ナタリーのためのパ・ドゥ・ドゥができました。初演でナタリーはそのデュエットを踊り、以来『ジゼル』には「村娘のパ・ドゥ・ドゥ」が受け継がれているというわけです。

以上、ブルグミュラーについてあまり知られていないエピソードを紹介しました。シューベルトとの類似点、パリを本拠としていたこと、才能ある弟の存在、バレエ『ジゼル』への音楽提供。「バイエルの次のブルグミュラー」の固いイメージから少し外れた、豊かな音楽世界を持つ一人の作曲家像が見えてきませんか。

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