日本の年末を飾る恒例行事、とくるとNHKの「紅白歌合戦」、そしてベートーヴェンの『第九』演奏会。でも「最終楽章の合唱が出てくるまでが長い! 退屈!!」とか、「これってほかの国でも年末に演奏されてるの?」と思ったことはありませんか。今回は『第九』をもっと楽しむための、知っておいて損はないお話。

ヨーロッパで年末の定番と言えば…

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)最後の交響曲、『交響曲 第9番 ニ短調 作品125』は、日本の年末に演奏されるクラシックの定番。ではクラシック発祥の地ヨーロッパ諸国ではどうなのでしょうか?

ヨーロッパの年末年始、とくるともちろんクリスマス、そしてクリスマス休暇のホリデーシーズン。ふだん教会に行かない人も、この時期ならではの演奏会を聴くために足を運びます。それは、ヘンデルの傑作オラトリオ『メサイア[救世主] HWV.56』です。これは米国でもおなじで、クラシック音楽本場の年末を飾る定番は『第九』ではなく、この『メサイア』になります。有名な「ハレルヤ・コーラス」は、だれしも一度は耳にしたことがあるでしょう。もっともドイツでは『メサイア』と並んでもうひとつのオラトリオ、すなわち同郷の作曲家にしてヘンデルと同い年のバッハの『クリスマス・オラトリオ BWV.248』もよく演奏されます。

日本ではじめて『第九』が演奏されたのは1918年(大正7年)のこと。場所はなんと徳島県の鳴門市(当時は板東町)にあったドイツ兵の捕虜収容所だったと言われています。このときは場所が場所だけに楽器編成が不完全なままの「日本初演」でしたが、1924年にようやく完全版の演奏が行われました。奇しくも『第九』がウィーンで初演されてからちょうど100年後のこと。「オレが苦労して完成にこぎつけたこの交響曲が、地球の反対側にある島国で鳴り響くとは!!」と、ベートーヴェン当人もくさば草葉の陰からひとり喜んでいたかもしれません。

当初の構想は器楽のみの交響曲だった!

さてベートーヴェンの『第九』ですが、当初は『交響曲 第8番』と同様の器楽のみの構成として着想されていたようです。『第九』、とくるとまっさきに「フロイデ!」から開始される「歓喜の歌」のあの名旋律が勝手に脳内再生される方がほとんどだろうと思いますが、この原詩(ゲーテと並ぶドイツ古典主義を代表する詩人・劇作家フリードリヒ・フォン・シラー(1759―1805)の24章からなる詩『歓喜に寄す(初稿1786年、1803年改訂)』)をベートーヴェンがはじめて知ったのは1793年。最初の交響曲さえ書いていない、23歳のときだったと言われています。ただちに曲を付けようとあれこれ想を練ってはみたものの、結局どれもお蔵入りに。このすばらしい詩に曲を付けるためには、長い長い熟成期間が必要だったのでしょう(ベートーヴェンが最終楽章に使用したのは、1803年版改訂稿になります)。

転機が訪れたのは、1812年ごろ。当時、ベートーヴェンが記していた『交響曲 第8番』の創作ノートには「歓喜・美しい神の閃光・娘」、「シラーの『歓喜に寄す』から取り出した断章で作曲する」などと書かれており、ナポレオン以後のヨーロッパ体制を話し合ったウィーン会議とほぼ同時期に、当時としてはたいへん進歩的な内容を歌ったシラーの原詩に曲をつけるという、長い間温めつづけてきた構想の実現にふたたび取りかかります。このときは「ふたつの交響曲」を作曲しようとしたらしく、ひとつは伝統的な器楽のみの交響曲、そしてもうひとつを「合唱付き」にする計画だったようです。

このアイディアもまた頓挫してひとつの作品としてまとめることに決めたベートーヴェンがようやくいま見るかたちの『第九』を完成させたのは、最初の着想からじつに30年以上も経った1824年のことでした。

L.V.ベートーヴェン『交響曲 第8番 ヘ長調 作品93』
[演奏:洗足学園音楽大学アンサンブルアカデミー]

「合唱付き」になったのは「新時代の音楽」を示すため?!

じつは、ベートーヴェンはシラーの原詩だけでなく、みずから「作詞」した歌詞までこっそり(?)追加しています。それが、合唱開始の直前に入るレチタティーヴォの歌詞、いや「前口上」と言うべきか。

おお友よ、このような調べではない!
もっと快い調べにともに声を合わせよう、
もっと喜びに満ち溢れた調べに!

そしてここに、作曲者の意図が隠されていると思われます。つまり、1~3楽章に登場した主題やモティーフを再現して回想すべきところをつぎつぎに否定したあげく、最後に「みんな、聞いてくれ、これまでの音楽じゃダメなんだ! ウィーン会議後の新体制になったヨーロッパに生きるわが友よ、わたし、このベートーヴェンが書きたかったのは、旧態依然たる絶対王政時代の遺物的な《このような調べではない!》…」と、「これからの音楽はこうなのだ!」、とダメ出ししたのが、このバリトンのレチタティーヴォというわけです。そして新時代を闊歩するかのように始まる「トルコ行進曲」風パッセージを経て、「歓喜」と「抱擁」の歌詞が二重フーガで登場したあと、歓喜の合唱ははるか天空へと円を描きつつ飛翔するような壮大な終結部へと突き進みます。モーツァルトの『ジュピター交響曲』と同様、ベートーヴェンもまたバッハ体験から得た対位法の技法をフル活用しているところも聴きどころです。

ちなみにシラーの詩ですが、まったく予期せぬ場所でいきなり出現したりします。それが、横浜市西区のみなとみらい駅。駅のコンコースへエスカレーターで下っていくと、目の前の壁面いっぱいに巨大な黒の御影石にシラーの詩と日本語訳のレリーフが現れます(はじめてこれを見たときはビックリしました)。ジョセフ・コスースという米国人芸術家の「アート作品」で、引用されているのはシラーがデンマーク王子宛てにしたためた書簡からの抜粋。書かれているのは「自然界の循環」についてで、『第九』の「汝[=神]の不思議な力は、時の流れが引き離したものを再び結び合わせる……すべての人は兄弟となる」と人類愛を賛美した歌詞といい、どこか通じ合っているような気もします。

L.V.ベートーヴェン『交響曲 第9番 ニ短調 作品125』から「第4楽章」
[指揮:ダニエル・バレンボイム / 演奏:ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団、英ナショナル・ユース合唱団ほか]

『第九』はベートーヴェンが構想した最後の交響曲ではなかった?

ところでベートーヴェンは、「これこそオレの到達点、交響曲シリーズはこれにておしまい」などとはツユほどにも思ってなくて、創作意欲はすこぶる高かったようです。その証拠に、『第九』につづく『交響曲 第10番』のスケッチを残しています。

先に書いたように、ベートーヴェンが『第九』の作曲にはじめて着手したのは『交響曲 第7番』、『同 第8番』とほぼおなじ1812年ごろと言われています(解説本によっては1818年ごろとされています)。しかし『第九』完成後はもっぱら弦楽四重奏曲の作曲に専念したベートーヴェンは『10番』については断片的なスケッチのまま手をつけることなく、1827年3月26日に世を去りました。享年56歳。

「諸君、喝采を。喜劇は終わった」が臨終のことばだったと伝えられているベートーヴェン本人がいちばん無念だったかもしれませんが、この『第九』がその後のクラシック音楽に与えた影響の大きさはいまやだれもが認めるところ。もしこの記念碑的な『合唱付き』が残されなかったら、その後のマーラーやブルックナーの手になる一連の交響曲も、そしてロシアのチャイコフスキーの交響曲も、こんにちわたしたちが知っているようなカタチには決してならなかった、ということだけは確実に言えるかと思います。