演奏家が理解すべき記憶と身体のこと(前編)

運動の指令

内向きの身体で演奏に大きく影響する知識には、人間の運動指令の構造も挙げることが出来ます。
先に少し述べましたが、人間の情報処理システムは、知覚系、認知系、運動という順で進みます。演奏も例外でなく、この順に従って起きます。運動には脊椎反射という脳を経由しないものも確かにあるのですが、ほとんどの演奏はここに含まれないので除外して考えると、演奏は大まかに以下のようにして起きます。
運動は企画段階と実行段階に分かれます。ここから少し複雑な動きをするのですが、最初の指令は大脳のうちの前頭葉で行われ、指令は体性運動連合野に伝わり、そこから大脳基底核(意識下において随意運動や反射運動を調節する場)と小脳(複雑な運動パターンを統合する場所)に指令が出ます。ここまでが企画段階です。次に、大脳基底核と、大脳基底核・小脳・体勢運動連合野の指令を調節する一次運動野(小脳以外はすべて大脳に存在)のふたつから信号が送られて運動へと繋がります。

細かい経路はさておき、最初の運動指令が意識的に行われる点は注目に値します。脳は細分化すると脳幹、小脳、大脳に分けて考えることが出来ますが、意識的な思考などはすべて大脳の機能です。つまり、演奏を「まったく思考することなしに本能的に行うことが出来るレベルにまで引き上げる」という考えは、ほとんどの場合において事実と異なるという事です。
そして、様残な経路を踏むにせよ、その調節に意識的に関わることが出来る場がある事は有益な情報でしょう。これを演奏に当て嵌めると、どのような指令を出すことで演奏を制御するのかを考えることが、演奏の練習において重要な役割を持つことを意味しています。
ピアニストのグレン・グールドには、ベートーヴェンのピアノ協奏曲のスコアをじっと見て、その後に全曲を暗譜して弾いたというエピソードがあります。これはグールドのソルフェージュ能力の高さを示す逸話ですが、その時に彼がした練習とは、運動指令の記銘であろうと思われます。

ソマティクス

内向きの身体でもうひとつ注目に値するのがソマティクスです。ソマティクスを説明するのは難しいですが、簡単に言えば自らの身体を自分でどう感じ、それをどう制御するかという分野と言えばよいでしょうか。音楽大学のレベルで言えば、野口整体やアレクサンダー・テクニークなどが取り入れられることがありますが、こうしたものがソマティクスに分類されます。
ソマティクスのすべてを述べる事は、字数的にも能力的にもここでは役不足ですが、例を述べるとボディ・マッピングなどがそれです。例えば、声楽で横隔膜のコントロールが議題となることがあったとして、横隔膜は体の内側にあるためにそれを見ることが出来ません。それを知りうるのは本人の感覚だけですが、本人ですら横隔膜を正しく把握できている補償もありません。また、ピアニストが肘を上げているつもりが、実際には肘よりも数センチほど上の部分を持ち上げている例なども同様の事例です。これらはボディ・マピングと言われる事故の身体的部位の認識の例ですが、これらの把握などもソマティクスには含まれます。

より相応しい運動方法へのアプローチも、ソマティクスを演奏に取り入れる例です。ピアノを演奏する際に「鍵盤を押すのではなく指を落とす」とする事や、ギター演奏の際に「手首を曲げないでおく事によって手首より先ではなく腕の筋力を活用する」といった事などは、より相応しい運動の例です。アレクサンダー・テクニークでは、運動を中枢で重心の移動を起こす全体的な運動パターン(トータル・パターン)と、その体勢を具体的な運動にする部分パターン(反射)の2つに分けて捉え、これをコントロールするプライマリー・コントロールというものを重要視しています。
野球などのスポーツもそうですが、かつてに比べ、現在は運動の合理性に人体学などの科学の裏付けが行われている時代になってきました。演奏もその例外ではありません。もし教則本をはじめとした楽器練習をしていて困難な運動に出くわした時は、正しい運動の解析から始める事は有義かもしれません。

身体性前夜

演奏に関する内向きの「身体」に関する知識のいくつかを紹介してきましたが、いま「身体性」と言うと、違う意味で使われる事が多いです。
現代において「身体性」が最初に問題となったのは、おそらく哲学の世界です。ここで言う哲学とは、ギリシャを機に西洋で発展したあの哲学の事です。
西洋の哲学は、伝統的にレアール(実在するもの)とイデアール(観念的なもの)に二分してものを見てきました。そうした物の見かたは現在にも色濃く影を残しており、人間と神、身体と魂(あるいは心)なども類似した捉え方をしています。これに異議を唱えたのが20世紀フランスにいたポンティという哲学者です。ポンティの身体論は現象学を根拠にしていますが、ポンティ存命中の現象学とは、世界が客観的に存在しているという前提を一度留保し、どのように世界が個人に対してあらわれるかを見ています。この場を身体と見ているわけです。

こうした現象学的な世界の捉え方は、生物学にも波及します。私たち人間は、空が上にあり、水があり、木があり、鳥が飛び、音が聞こえ…という形で世界を捉えていますが、それは人にとっての世界のあらわれ方であって、昆虫やほかの生き物にとっては、世界は違うあらわれ方をしている可能性があります。一義における「身体性」とは、我々は光を捉える2つの目を持ち、20Hzから20kHzまでの空気の粗密派を捉える耳を持ち、歩く足を持ち…という事を示しています。

身体性認知科学上での身体への視点

こうした学際的な発展をしながら、「身体性」は現在よく使われる認知科学上の知見に繋がります。その特徴のひとつは、身体を内向きの身体と外向きの身体の接地点と見る事、別の表現をすれば知覚/認知と運動(と、その運動の対象)の双方を配慮する点です。考えてみれば、人間の身体はそれ単独では存在できません。外から食料や水や酸素を得なければならず、また地球と同等の環境下でなければ生存できません。

身体性の重要性は、身体を持たないものと比較すると分かりやすくなります。例えば、「記号接地問題」というものがあります。人間は、テーブルの上にある鉛筆を簡単に見分けることが出来るでしょう。しかし、身体を持たない人工知能にとっては、この認識は容易ではありません。それが細い木の棒なのかタバコなのかの判断が難しい、というわけです。この問題は、「身体性を有する場合に限って実世界とかかわりを持つことが出来る」という見解に繋がります。また、外部との関係性の中にある身体は、その身体によって世界に参加しているわけで、そしてその身体は「私」の認識を生み(実際には意識についての知見なども考慮しなければ「私」は説明困難ですが、ここでは説明を省きます)、その私が起こす運動は、外部世界への行為という形を取ります。

音楽をする私の根本にあるもの

身体性のこうした知見は、音楽にとって有益でしょう。なによりまず、行為は根本として外環境に対する「私」の行為であるという事です。現在のクラシック音楽のほとんどはその外環境を人(もしくは擬人化された何ものか)としていることを考えると、それを意図と言い換える事も出来るでしょう。
また、音楽という行為の特徴は、それが音である事です。音は、内観と外観と意味を伝え得る形式です。その範囲で外部に行為する場合、何が可能となっているかを考える事は有益でしょう。それは「なぜ音楽か」に直結する視点です。例えば、内観に限定して言えば、音は「通常の知覚/認知過程をより強烈に体験する事」「印象を伝える事」などが可能となり、外観で言えば「形式としてとらえる過程を体験させること」などが可能になります。実際には、ここに時間的要素や文化的コード、そして意味なども加わることになるので、問題はここまで単純ではありませんが、科学と違って芸術が一人称を持つ理由は、身体性がその根本にある事であるように思われます。

ここに書いた知見の多くは、音楽家であればどこかで一度は触れたことがあるものだと思います。しかし、迷ったときに身体に立ち返り、それがどのような特徴を持つもので、またそれが何であるかを思い出すことは、音楽を続けるにあたって益ある事ではないでしょうか。