両親がクラシック音楽ファンでもない限り、クラシック音楽との出会いは小・中学校の授業で聴かされる教材だけだったという人も多いでしょう。メンデルスゾーン「バイオリン協奏曲ホ短調 作品64」やベートーヴェン「交響曲第6番ヘ長調 作品68『田園』」のように、曲自体がその作曲家を代表するような名作であれば、よい「入り口」となるかもしれませんが、中には「子供向け音楽」という看板が災いして、他の作品はあまり聴いてもらえない気の毒な作曲家もいるようです。「動物の謝肉祭」のカミーユ・サン=サーンスと「ピーターと狼」のセルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953)はその代表格でしょう。

「ピーターと狼」は後半の作品

子供のための音楽物語「ピーターと狼」が作曲されたのは、プロコフィエフが20年近くに及ぶ海外での生活をたたんで1933年に帰国してから3年後のこと。神童として教育を受け、ブルジョワジーの好楽家のために自由に創作できた昔とは大違い。(表向きは)国の担い手である労働者階級のために作曲しなさいという「浦島太郎」状態での再出発ですから、メロディーひとつひねり出すにしても分かりやすく、しかも社会主義芸術として外国で披露するにも恥じないものが求められたのですから、ストレスもたまったことでしょう。
この時期、「ピーター」以外の大人向けの作品にしても、平明で親しみやすいというか、機械的で力強いというか、悪く言えばラジオ体操みたいな曲も量産していました。ドラマ「のだめカンタービレ」の挿入曲としても知られるバレエ音楽「ロメオとジュリエット 作品64」(1936年)の「騎士たちの踊り」、同じく「ティボルトの死」なども、一度聴いたら忘れないグロテスクさを秘めています。

実際のバレエでは、親友の死に激高したロメオが仇敵を討ち果たす悲劇の始まりとなる場面なのですが、音楽だけでは登場人物への感情移入が抜け落ちていてコンピューターゲームの画面みたいなシステマチックな曲作りには、味気のない殺風景な情景をも覚えます。音楽が出しゃばるのではなくダンサーたちの演技を楽しんで下さい、という作曲者の配慮もあるのかもしれませんが、タイトル(あらすじ)を読まないと曲を楽しめないという難点もあるかもしれません。

同じ時期の作品から標題抜きで刺激的な仕掛けを楽しむとしたら、「ヴァイオリン協奏曲第2番 ト短調 作品63」(1935年)がお薦めです。弦楽器の甘い語り口にバスドラムやカスタネットが切り込んでくる奇抜な組み合わせがたまりません。

ちなみに「交響曲第5番 変ロ長調 作品100」(1944年)は、ショスタコーヴィチの5番とともに東欧圏以外でもよく演奏されてきましたが、対独戦の勝利を祈念し偉大な祖国をたたえるといった曲想ですから、人によっては好みも分かれるところでしょう。
さらに、深読みすると面白いのは、1944~46年に制作されたソ連映画「イワン雷帝第1・2部」(セルゲイ・エイゼンシュテイン監督)の音楽(作品116)。ロシア史上、稀代の暴君と恐れられたイヴァン4世の生涯を描く3部作のドラマとして構想されたものの、2作目まで完成すると、権謀術数をめぐらして地位を固めるツァーリの姿は暗にスターリンを批判していることになるのではないかと心配した役人たちの〝忖度〟により、公開はおろか第3部の制作さえ中止になった…といういわくつきの作品です。作曲者の死後、残された楽譜をもとに語りを付けたものが演奏会形式で紹介されるようになりました。

「ロメオとジュリエット」や「シンデレラ」の可愛らしさとは真逆。冒頭から映画のクレジットタイトルに流れる肉厚で泥臭い混声合唱の応酬には、ロシア音楽の王道を語り尽くすかのようなハッタリがあふれる一方で、これ単独で使ったら当局の検閲に引っかかりそうな「難しい」「奇妙な」フレーズもさりげなく随所に挿入されています。脚本を裏読みした作曲者のささやかな抵抗だったのかもしれません。

プロコフィエフと黛敏郎

さて、20世紀のクラシックの作曲家をざっと眺めると、自身の育った土壌や伝統を前面に打ち出して音楽をつくろうとするナショナリズムと、自国の特色を作品に盛り込もうとはせずに普遍的な音楽づくりを志すグローバリズムに大別されます。例えば、黛敏郎(1929-1997)はその言動から保守派の改憲論者としても知られた人でしたが、素人が聴くと作品の中に「ニッポン」を髣髴させるような要素は乏しく、コスモポリタンな姿勢で一貫しています。代表作の「涅槃交響曲」(1958年)も、男声合唱による「読経」を導入したり梵鐘を管弦楽で模倣するなど、一見、日本的な印象を与えるものの、これらを取り払って旋律や音響だけに耳を澄ましてみると、実は意外と出自不明の無国籍なパーツで組み立てられていることが分かります。

プロコフィエフも、上記に挙げた「イワン雷帝」は例外の方で、もともとロシア的な音色を売り物にする気はなかったようです。「古典交響曲 ニ長調(交響曲第1番) 作品25」(1917年)や「三つのオレンジへの恋 作品33」(1919年)といった駆け出しの時分に手がけた作品にも、ロシアの先輩作曲家の影や踏襲はほとんど見られず、いきなり自分自身がこれからの新しいヨーロッパの音楽を作り出すのだと突っ張りまくる気概にあふれています。

中でもその無国籍ぶりが暴走気味であるのが、同じ時期に創作された「スキタイ組曲『アラとロリー』作品20」(1914年)やバレエ音楽「道化師 作品21」(1915年)でしょう。スキタイ組曲はディアギレフに「春の祭典」の二番煎じとくさされたそうですが、正体不明のおどろおどろしさにかけてはハルサイをも上回る気味悪さがあり、ソビエト時代の表向き啓蒙的なメロディーからは想像もつきません。隣り合わせで作曲されている「道化師」では露骨な野蛮さは影を潜めるものの、聴きづらい曲想の中に「ペトルーシュカ」にも似た冷徹な狂気を感じさせる作品です。この時代、プロコフィエフとストラヴィンスキーの創作志向がニアミスしていたというのは、今となっては面白い偶然ということになるのでしょうか。

「青春交響曲」の謎

第二次大戦末期に、プロコフィエフは階段から落ちたときのケガが原因で体調が悪化し、医師に作曲の時間を制限されるなど不遇な晩年を過ごすことになります。これまで自分が歩んできた道を本当にこれで良かったのかと追懐しているような印象を想起させるのが、亡くなる前年に完成した「交響曲第7番 嬰ハ短調『青春』作品131」(1952年)でしょう。

「ソビエトの青年たちに捧げる」という教条的なタイトルとは裏腹に、寂しさを隠しきれないような雰囲気が全体に漂っています。第4楽章のフィナーレとして軽妙な気分で音楽が歌い出し、賑やかに盛り上がるかと思うと、次第にペーソスに満ちた曲想で終わってしまうというあっけない展開からして「前途有望な青年たちへのメッセージ」と、表題を額面通りには受け止められません。
初演の際、指揮者からの要請に応じて20小節ほどコーダを書き足して、一転長調で華やかに締めくくる改訂がされたものの、出版された楽譜ではコーダは付録として掲載され、どちらで終わらせるかは演奏者の判断に委ねる形になっています。
ショスタコーヴィチが晩年に書いた交響曲第15番(1971年)では「ウィリアム・テル」をパロディにした冒頭の軽妙洒脱な楽章のあとはだんだん首を絞められるような悲痛な世界に突入してそのまま救いようのない終わり方をしてびっくりさせられますが、ひょっとするとプロコフィエフの最後の交響曲も似たような狙いがあったのかもしれません。

一作ごとに作風が変わるとまで評されたストラヴィンスキーとは対照的に、プロコフィエフにはそれほどのブレはないようにも見えますが、青年期から晩年まで色々と聴き比べてみると作曲家の波乱曲折の人生が垣間見れるかもしれません。「ピーターと狼」だけではうかがい知れない作曲者の心情がこめられた珠玉の数々に出会えるはずです。

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