20世紀のクラシック音楽には、モダニズムや無調音楽のように従来の様式や手法から脱却して新たな方向へと歩む一連の動きとは別に、今までの音楽を踏まえて独自の立ち位置や作風で一世を風靡した作曲家もいました。

イギリスのベンジャミン・ブリテン、ドイツのパウル・ヒンデミット、ハンガリーのゾルタン・コダーイなどと並んで、フランスの奇才フランシス・プーランク(1899-1963)は忘れられない存在です。


 

フランス楽壇の〝星新一〟?

プーランクは裕福な家庭に生まれた生粋のパリジャンで、幼時から母親の手ほどきによりモーツァルトを手本にピアノを習い、10才の頃にはシューベルトの歌曲に夢中になります。

のちのプーランクの作品にその面影を見つけるのは難しい感じもしますが、荘厳勇壮な世界とは無縁の心優しいサロン音楽めいたプーランクらしさを育てたのはこの二人だったのかもしれません。

多感なティーンのとき、ピアノの師匠の手引きがきっかけとなり、エリク・サティ、ポール・デュカス、モーリス・ラヴェル、イーゴリ・ストラヴィンスキー、セルゲイ・プロコフィエフ…といった名だたる作曲家の知遇を得る一方、アルテュール・オネゲル、ダリウス・ミヨーといった同年代の仲間からも刺激を受けて、作曲家を志すものの、大きな壁が立ちはだかります。

プーランクの実家は祖父が薬種商、父と叔父は製薬会社を立ち上げて大成功した人物でした。〝三代目〟として息子に実業家になってほしい父親は、パリ音楽院への進学を許してくれませんでした。

製薬王の子息というと、SF作家で数々のショート・ショートの傑作を残した星新一と重なるところがあります。もっとも星新一の場合、既に傾きかけていた親父の会社をさっさとたたんで天職に専念できたわけで、友人の北杜夫は経営者にならずに済んだからこそ、数多くの素晴らしい作品が生まれたのだと評しています。

自身が会社の経営に関わらなかったのがよかったのか(?)、彼の会社は他社との合併等を経てフランスの主要な産業の一翼を担う一大コンツェルンに成長・発展し、ユーロの時代まで続きました。

結果、創業者の一族である彼には莫大な財産が転がり込むのですが、作曲家・プーランクとしてはこれが悩みの種でした。

大統領選挙などの政局からも窺えるように、フランスは昔から学歴が物を言う徹底したエリート優位の社会です。

コンセルヴァトワールで正規の音楽教育を受けなかったプーランクを世間は一流扱いしてくれず、おまけにその出自が災いして、作曲家といっても「金持ちの余技・道楽」と見られるのを苦にしていたといいます。

ちなみに、イギリスのトーマス・ビーチャム(1879-1961)もこれまた製薬会社の御曹司でオペラの興行やオーケストラの設立に多額の私財をつぎ込み、アマチュアながら英国を代表する名指揮者にまで上り詰めた人ですが、この種の〝公私混同〟とはプーランクは無縁だったようで、代表作のバレエ音楽「牝鹿 FP36」(1923)もバレエ・リュッスを率いた天才興行師のディアギレフの依頼で作曲されたものです。

自分の才能一本で職業作曲家の道を歩んだあたり、プーランクの生真面目さが感じられます。

いつでも「びっくりシンフォニー」

芸人や俳優、小説家には、実生活での放蕩無頼を「芸の肥やし」にするタイプと、舞台の外では至って慎ましい生き方するタイプがいます。プーランクは、その型破りで破天荒なメンタリティーをもっぱら創作の中で爆発させました。

サン・サーンス「白鳥」やラヴェル「亡き王女のためのパヴァーヌ」などとも共通する、フランス音楽の美しさを踏襲するメロディー・メーカーとしての資質が存分に発揮される一方、当時のパリを席巻した〝アバンギャルド〟をそのまま旋律にしたような攻撃的で破壊的な仕掛けが同じ曲の中でめまぐるしく交錯する〝気まぐれ〟な作風は、いわば慢性的かつ確信犯的な「びっくりシンフォニー」(ハイドン:交響曲第94番第2楽章)で、飽くなきこの悪ふざけぶりこそプーランクを味わうキーワードともなっているのです。

「2台のピアノのための協奏曲 ニ短調 FP61」(1932)を作曲者自身が友人のジャック・フェブリエと演奏している貴重な映像です(指揮は若き日のジョルジュ・プレートル。同じコンビでCDもEMIから出ています)。

突っ張りまくる刺激的なやり取りの間に、なんともメランコリックで憧れや恥じらいを抱かせる旋律が漂うのですが、すぐにまた「これじゃ終わらね~よ」と聴き手はだまされ、からかわれ、なぐさめられ…このMっぽさが病みつきになる人も多いことでしょう。

「破廉恥」と「反省」の繰り返し

ところが、プーランクの不思議ちゃんぶりは、これだけではありません。上の作品みたいに、遊びの中に不謹慎さをふんだんに練り込んだ作品を発表したかと思うと、「こんな破廉恥な真似を続けていてはいけない」とこっぴどく叱られた子供よろしく「大いに反省した」とおぼしき作品も書いてしまいます。

にわかには信じられませんが、プーランクは両親の影響で敬虔なカトリック教徒だったそうで、「ミサ曲 ト長調 FP87」(1937)、「悔悟節のための4つのモテット FP94」(1938-39)、「クリスマスの4つのモテット FP152」(1952)といった信心深く典雅な美しさに満ちた宗教作品も数多く残しているのです。

フランツ・リストみたいにある出来事をきっかけに信仰心に目覚めて生活態度や作風をがらっと変える芸術家はあまたいますが、羽目を外しまくって悔い改めたようで結局は元の木阿弥…を繰り返すブレのすごさはプーランクならではのもの。本人も内心ではそんな中毒症状を楽しんでいたのではないか、と勘ぐりたくなります。

ちなみに、プーランクは私生活では、男性を好きになったり女性を好きになったりという「両性愛」の性癖があったそうで、世が世なら処刑されていた危なっかしい〝綱渡り〟と創作の上での〝気まぐれ〟は意外とつながっていたのかもしれません。

いっぽう、こんな作曲者でも、時代の苦悩には敏感でした。凄惨を極めたドイツ軍の占領期には、普段の明朗快活な色彩とは打って変わった暗い作品も書いています。

1942-43年に生まれた「バイオリン・ソナタ FP119」はファシストの凶弾に倒れたスペインの詩人で劇作家のフェデリコ・ガルシーア・ロルカを追悼した作品で、オネゲルの交響曲第2番を想起させる痛切な響きに満ちています。

特に注目したいのは、2群の無伴奏混声合唱のために書かれたカンタータ「人間の顔 FP120」(1943)でしょう。とある演奏会で作詞・作曲とも匿名のままゲリラ的に初演したあとで、楽譜は密かにイギリスに持ち出され、BBCからフランス全土に放送されるや、国民の抵抗心を鼓舞しました。

終曲は、「学校のノートに/机に,木の幹に,/砂の上に,雪の上に/私はお前の名前を書く…」と〝何か〟を書く大切さが延々と約10分にもわたり歌い継がれ、最後に力強く、「お前を名づけるために; 自由と」(訳:津村正)との絶叫に心揺さぶられます(戦後、作詞者はレジスタンスの闘士で反ナチの詩人であるポール・エリュアールであると公表されました)。

ところが、こうした身の危険も顧みない反骨精神を貫くのとほぼ同じ時期に、プーランクは2幕の喜歌劇「ティレジアスの乳房 FP125」(1944)を書き上げているのですから、ますます訳が分からなくなってしまいます。

この原作はフランス社会の少子化傾向を諷刺したギヨーム・アポリネールの戯曲で、夫の亭主関白ぶりに不満を募らせた妻テレーズのオッパイが破裂して男になり、夫は一人で子供を大量生産して…という奇想天外な筋立てです。

底抜けに明るく、突拍子もない歌のやり取りは理屈抜きで面白く、相変わらずの真面目と不真面目の同居するプーランクらしい「毒饅頭」づくりは、こんな時代でも健在だったのかと唖然とさせられます。

ところが、これを上回って理解しがたいのは、平和な時代が訪れるとこんどはPTSD(心的外傷後ストレス障害)が出てきたのか、「カルメル派修道女の対話 FP159」(1953-56)というシリアスなオペラを発表していることです。

「フランス革命の恐怖政治により殉教した若き修道女」が主人公ですが、もちろんその本当のテーマは10年前のナチス・ドイツ支配下における人々の良心を真正面から問い直そうとしていることは当然理解されていたはずです。

大詰めで処刑を見守る群衆の中にいるヒロインが、修道女たちが賛美歌を歌いながら一人ずつ声が消えて行くのを見かねて、自分も聖歌「サルヴェ・レジーナ」を歌い始めるという名状しがたいシーンをご覧下さい。

この時期のプーランクは、いつもの悪ふざけを裏返した「真面目病」の頂点にいて、感動のあまり作中のヒロインに恋してノイローゼになったとも伝えられており、どうやら年を重ねてもウブな少年らしさはちっとも変わっていなかったようです。

永遠のクソガキ

作曲家の中には、功成り名を遂げた老境に至ると晩年のストラヴィンスキーみたいに昔の自分の業績まで否定して物わかりの良い「分別じいさん」に成り下がる人もいますが、現役バリバリのまま64才で生涯を閉じたプーランクは、円熟や老成とはほど遠いエネルギッシュな作品を最後まで残してくれました。

ペーソスに溢れた「フルート・ソナタ FP164」(1956-57)、かつてのアバンギャルドを髣髴させる「クラリネット・ソナタ FP184」(1962)などの佳作に加えて、1959年に完成したソプラノ・ソロ、合唱と管弦楽のための「グローリア FP177」は、彼の相矛盾する不真面目さと真面目さが見事に融合した晩年の傑作です。

もともと「グロリア」はキリスト教のミサで唱えられ、歌われる典礼文の一部でおごそかに演出されるべきはずなのですが、プーランクは、これを一節ごとに脳天気であっけらかんとした節回しで歌わせ、オケの間奏にはパリの夜景でシャンパンを傾けているかのごときエレガントでオシャレなメロディーをからめます。

この「フランス版念仏踊り」「シャンソン風ゴスペル」を評論家のハロルド・C・ショーンバーグは「グロリアの歌詞に本来含まれている祝祭的な要素を余すところなく描き出している」と絶賛しました。

自身の二面性や矛盾をさらけだす勇気を終生忘れず、正真正銘の作曲家への夢を追いかけた(良い意味での)永遠のクソガキ――プーランクはそんな人でした。