このインタビュー・シリーズでは以前に1985年のライヒを紹介しましたが、そこから10年後の1995年、再びシカゴにやってきた彼をブルース・ダフィーが会話に誘いました。今回は1993年にウィーンで初演された、ライヒの初のオペラ『The Cave』の制作について、詳しく話を聞いています。ライヒ一行は、パレスチナ自治区にあるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つの聖地「マクペラの洞穴」を訪ね、プロジェクトをスタートさせます。

インタビュアーは、シカゴのブロードキャスター、ブルース・ダフィー。クラシック音楽専門ラジオ局Classical 97で、1975年から2001年まで、1600人を超える音楽家のインタビューを行ない、1991年に米国作曲家作詞家出版者協会のディームズ・テイラー・ブロードキャスト賞を受賞しています。インタビューの日本語版は、ブルース・ダフィー本人の許可を得て翻訳したものです。

Steve Reich: photo by Ian Oliver, 2006(CC BY 2.0)

スティーヴ・ライヒ(Steve Reich, 1936 – )について:ミニマル・ミュージックで知られるアメリカの作曲家。両親はともにユダヤ系。今回のインタビューで話題の中心となった『The Cave』は、ユダヤ人であるライヒの出自から出たテーマという意味で、1988年の『Different Trains』に続く作品と言えそうです。『Different Trains』は、幼少期の自分がもしヨーロッパにいたら、違う汽車(強制収容所行きの)に乗っていたかもしれない、という発想から生まれた作品でした。

*1995年11月9日、シカゴにて。

オペラにはまったく興味がなかった

ブルース・ダフィー(以下BD):では新曲の『The Cave』のことから話しましょう。あれはどんな風にできた曲なのか、アイディアはどこからやってきたのでしょうか。どれくらいが視覚的で、どれくらいが音楽的なのか。

スティーヴ・ライヒ(以下SR):実際のところ、最初のきっかけは『Different Trains*』なんだ。1985年にベティ・フリーマンからクロノス・クァルテットのために曲を書いてほしいと依頼を受けた。そうしたら1987年ごろに、ビデオ・アーティストのベリル・コロット*が「クロノスの曲にサンプリング・キーボードをつかったら。彼らは気に入るだろうし、あなたも使い倒したくなるわよ」とね。それで人々の話し声と楽器がスピーチ・メロディを奏でるというアイディアを、この曲でやったんだ。オペラについては、1970年代の後半と1980年代初頭にホーランド・フェスティバルとフランクフルト・オペラから作品の依頼を受けたんだけど、断っていた。

*Different Trains:弦楽四重奏とテープ音楽による三楽章からなる楽曲(1988年)。クロノス・カルテットの演奏でリリースされ、翌年(1990年)グラミー賞最優秀作品賞を受賞。(Wikipedia 英語版)
*ベリル・コロット:アメリカのビデオ・アーティスト。1945年〜。1970年代初頭よりビデオ・アートの世界でパイオニアとして活躍。1976年にライヒと結婚。

BD:どうして?

SR:何であれ、オペラを書くことにまったく興味がなかったからね。舞台でベルカントで歌って、オーケストラはオーケストラピットで演奏するっていうやり方は笑っちゃうし、まったくよくないよ。グルーチョ・マルクスもそう言ってたと思うけど。

*グルーチョ・マルクス:アメリカのコメディ俳優。1890〜1977年。マルクス兄弟の一人。

BD:で、作曲家として、ふさわしいものではないと。
SR:そう。

BD:いまオペラを見にいって楽しんでる人々にとっても、ふさわしいものではない?

SR:いいや、そうじゃない。わたしが楽しめないのに、人を楽しませるようなものを作れるだろうか、ということだけど。わたしは人を退屈させたくはない。で、頭をかきかき、こう言うわけだ。「おかしなことだな。あっちでもこっちでも、わたしに大きなチャンスを与えてくれる人たちがいて、何かアイディアがあるはずだと言う」 驚いたことに、『Defferent Trains』を進める中で、こう考えはじめた(特にこれを最初に提案してくれたのが、ビデオ・アーティストだったからね)。もしわたしが使用する声の主を視覚的に見せることができるなら、インタビューされる人は大きなスクリーン上に映されて、同時に音楽家たちが、人々が話している言葉を演奏するわけだ。舞台の上のミュージシャンとビデオで映されたインタビューの間で起きる相互作用を楽しむことができる。

それで、ああー、「開けゴマ!」ってね。これが音楽劇、オペラの世界への入場許可証になったんだな。さあ、それでオペラに戻って、いろいろ話したいというのであれば、わたしはクルト・ヴァイル*を見たり聴いたりすることで、たくさんのことを学んだと言いたいね。わたしのは彼のような音楽ではないけどね! ヴァイルはブゾーニの生徒だった。かれは政治的な関係から「the divas du jour(今日の歌姫)」をもつこともできた。ベルリン・ドイツ・オペラでも、何であれ欲しいものを手にできた。でも彼はこう言ったんだ。「いや、ちがうちがう、わたしのオーケストラはバンジョーとサックスとトラップドラムス*からなる。で、歌手についてはこの女性がいる。彼女はうまいわけじゃないけど、いい具合にハマると思うよ」

*クルト・ヴァイル:ドイツの作曲家。1900〜1950年。ブレヒトが台本に協力した『三文オペラ』が有名。晩年はアメリカでも活躍。
*トラップドラムス:胴体部分のないドラムス。通常は音が小さいので練習用としてつかわれる。

BD:(笑)

エルサレムへの旅

BD:あなたの中に(『The Cave』で使われている手法の)アイディアが生まれたときというのは、最初に音楽が浮かんでそれからビジュアルなのか、それともビジュアルが来て音楽が来るのか、それともすべて一緒に出てくるものなのか。

SR:音楽は言葉から生まれてくる。『Different Trains』でやったのと同じようにね。まず最初にわたしたちがやったのは、第1幕のために、西エルサレムまで行ってイスラエルのユダヤ人の録画をすることだった。それから第2幕のために、東エルサレムとヘブロン(ヨルダン川西岸の街)に行って、パレスチナ人のムスリムを撮り、そのあとニューヨーク市とテキサスまで行って、第3幕のためにアメリカ人を撮った。

音楽は登場する人たちのスピーチから取っているので、そして文字通り、彼らの話したことをそのまま使っているから、わたしは楽譜を書くことがなかった。冒頭のパーカッションの部分以外はね。そこはわたしが書いた。

6ヶ月のあいだ、わたしはただ座って、うずうずしながら、中東に行って撮影できるだけのお金がたまるのを待っていた。それで家にもどってきて、録ってきたものを隅々まで聴いて、使える部分を探し出し、語りのメロディーがどこにあるか何度も聴いて見つけ、それをピアノで弾いて、楽譜帳に書き出した。そしてやっとのことで、作曲するところまでいったんだ! 起源に関する説明がいくらかあるけど、話し手の言ってることのすべては、スピーチメロディーをとおして受け取る。わたしはそれを書き出して、どんなハーモニーと楽器が可能か、どんな音符になるか、といったことを探り出すわけだ。

BD:それがあなたの台本なのでしょうか。

SR:そう、正にそれが台本だよ! 台本は基本的に作品が進んでいく中で培養されていく。わたしたちがやっていることの性格上、すべて書き出すことは不可能なんだ。それは書いたものから出てくるんじゃなくて、すべてスピーチ(しゃべり)から来るものだからね。それと関係なくわたしたちが選んだものは、物語を伝える起源の説明だけだね。

BD:あなたの音楽的アイディアは、どのスピーチを、あるいはスピーチのどの部分を使うかに影響したんでしょうか。

SR:確かにそうだね。スピーチの切れ端を選ぶときに、二つのことをする必要があった。物語を伝えることと同時に、人々の語りを、彼らがしゃべっていることに見合うよう、音楽的な声として、どこに入れ込むべきかを見つけなければならなかった。ある人たちは素晴らしく知性溢れる話をして、とても面白い考えを語るけど、聴くには退屈だった。音楽的な声のトーンじゃなかった。平板で単調なわけだ。その部分はすぐさまゴミ箱行きになったね。prima musica、まずはいい音楽である必要があるからだ。拘束衣*でやる作曲と言えるね。

*拘束衣:他人あるいは自分自身に危害を加える恐れのある者に着用させる、手の指を覆うような長い袖の衣服。(Wikipedia 日本語版、英語版)

アブラハム、サラ、ハガルといった人の物語を伝えるものを見つける必要があったけど、その内容を伝える声は音楽的でなければならなかった。その上、最初の二つの楽章がイ短調になっているのを見つけたものだから、イ短調になる素材を見つけなければならなくなってしまった。それでいくつもの拘束衣を着て、作曲することになった。だけどそれは、ストラヴィンスキーが言ったように、非常に役立つやり方でもあったんだ。限定的であればあるほど、制限がかかればかかるほど、自由になれる。これにわたしは100%同意するよ。

BD:すべてがうまくいったとき、あなたはこの曲をつくったという役割に満足するでしょうか。あるいはもっと何かしたい? もっと何かできたならと願いますか? あるいはもっとコントロールできていたらと。

SR:わたしはどんな人間もがやってきたように、できる限りのコントロールをしてきたよ。あなたの質問の意味がわからないな。

BD:きつい制御の中で、あなたがさっき言ったように、さまざまな拘束衣を着て?

SR:わたしはそれを選ぶね! それを選ぶよ。誰も『The Cave』をやるように言わなかった。実際のところ、誰もが別のことをわたしに頼んできた。わたしは自分が何をすべきかを正確に選んだし、どのようにやるかを選んだ。わたしは自分が負っている規律に従ってそれをやった。作曲家になることを自分が負っているのと同じだね。自分に課していないこと、規律にないことはわたしはやっていない。運のいいことに、わたしはどこの会社にも新聞社にも、そういったところに勤めていない。だから問題になることはない。

(後編へ続く)

スティーブ・ライヒ『テヒリーム』が彼のディスコグラフィのベストかもしれない件

第4回 スティーヴ・ライヒ(前編)【20世紀アメリカの作曲家インタビュー】

スティーヴ・ライヒ 二つのインタビューamazon

記事提供元:Web Press 葉っぱの坑夫