古くて新しい「真贋論争」

何年か前、「現代のベートーヴェン」という触れこみの作曲家の書いた交響曲が話題になりました。

ところがこの作品、じつは音楽大学講師の作曲家先生がほんとうの作曲者、つまりゴーストライティングしていた、ということが露見してたいへんな騒動になったのはまだ記憶に新しいところです。

西洋音楽界の「真贋論争」はいまに始まったことではなく、いわば古くて新しい話。

たとえばペルゴレージの「悲しみの聖母[スターバト・マーテル]」。

発表当時から評判で、作曲した本人が若死にしたこともあり贋作が横行。

20世紀前半に編纂された『ペルゴレージ全集』収録作品のうち、なんと5分の4が「アカの他人の作品」だと考えられています。

有名どころではほかにヴィヴァルディの「春」を自作の合唱作品に組みこんで「主をたたえよ」として出版したミシェル・コレットの例がありますし、近年では「アルビノーニのアダージョ」や「カッチーニのアヴェ・マリア」などもそのたぐい(それぞれジャゾット、ヴァヴィロフ作)。

あるいは少年合唱ファンにはおなじみの名曲「モーツァルトの子守歌」も、真作者は医者でアマチュア音楽家でもあったベルンハルト・フリースという人です。

金儲け、あるいは聴衆を欺くことが前提で贋作をでっち上げる、というのはたしかに道義的に問題ある行為。

だいいちセコいですし、人としてどうなの、とも思いますが、ここで最初の事件の話にもどりまして、ではそこで演奏された / 録音された「音楽作品」というのは、ほんとうに無価値無意味だったのでしょうか?

この騒動のとき、「騙された、金返せ!」みたいなことを主張する方もけっこうおられたようですが、音楽芸術作品の持つ価値というのはどんなジャンルであれ、最終的には「聴き手がどう感じたのか」に尽きるように思います。

バッハ作と伝えられるあの曲も他人の作品? 

たとえばバッハ。バッハ好きにとってはおなじみの話ですが、この人はいまで言う「セルフカヴァー」的手法を好んでいた人で、「よい素材は何度でも繰り返し使う」ことをモットーにしていたのではないかとさえ思えるほど、おなじ素材を何度も利用しています。

「バッハのアリオーソ」として知られる甘美な旋律もその一例ですが、楽曲まるまる「転用」する場合も多かった。

たとえば14曲が現存する「チェンバロ協奏曲」や「オルガンのための6つのトリオ・ソナタ」は、ほとんどがいまでは失われた原曲を編曲したものと言われており、失われた「原曲」を復元して演奏する試みまで行われています。

またバッハ最晩年の大作『ミサ曲 ロ短調(BWV 232)』にも、過去の自作教会カンタータの転用(パロディ)が織りこまれていることが明らかになっています。

だからといって安直な「やっつけ仕事」とほど遠い作品であることは、キリスト教徒でもなんでもない日本人が聴いても感動を覚えることからしても明らか。

最近の研究では、バッハが対応するミサ通常文にもっともふさわしいカンタータ楽章を吟味し、徹底的に改作した点が指摘されてもいます。

じつは「バッハ作品目録」にはアカの他人の「偽作」が数多く紛れこんでいて、サラ・ヴォーンの『ラヴァーズ・コンチェルト』のベースとなった『メヌエット ト長調(BWV Anh.114)』も、じっさいにはクリスティアン・ペツォルトなるバッハと同時代に活躍したドレスデンの教会オルガン奏者の手になる作品ということがわかっています。

そしてバッハもペルゴレージの『悲しみの聖母』贋作者(!)というレッテルを張られかねない編曲を書いており、そちらは『至高者よ、わが罪を贖いたまえ(BWV番号なし)』なるモテットとして残っています。

ほかにも音楽家を多数輩出してきた家柄ゆえ、「バッハ作品目録」を調べたらバッハではなく親戚筋や先人の作品だったという事例もごろごろ。

「真作者」がヨハン・ゴットフリート・ヴァルターだったり、最初の奥さんマリア・バルバラの父ヨハン・ミヒャエル・バッハだったり、果ては先輩筋のヨハン・パッヘルベルだったりします。

(J-POPの作曲家でも、いわゆる「カノン進行」のベースラインを借用している事例はひじょうに多い。パッヘルベルがこの事実を知ったら、「使用料を払ってくれ」とか言うのかな? )。

聴き手にとって、ほんとうに大切なのは

でもそれは「故意」ではないでしょ、と反論されるかもしれない。

たしかに故意かそうでないかは看過できない点ですが、西洋音楽において著作権意識が高まってきた時期が、市民階級の勃興と軌を一にしていた古典派以降という点も忘れてはならないと思います。

ようするにバッハ時代まではだれそれの作品かより、作品として優れているかどうか、優れていればもっと優れた作品へと改作すべきという意識のほうが勝っていた時代。

むろん当時から他人様の作品の盗用はいかん、という認識はあったものの、究極的には「神が喜ぶこと」が最優先だったわけです。

冒頭に挙げた交響曲作品の演奏会で涙したはずの人が、ほんとうの作者が明らかになったとたん手のひら返すみたいに「金返せ!」と叫ぶのは、ちょっと滑稽でもあります。

やはり音楽作品というのはそれを聴いた人の耳こそ、最高の判断基準なのではないでしょうか。

古楽復興の祖でバッハ演奏家としても高名だったグスタフ・レオンハルトは、そういう「作品としての音楽」以外の介在物、ないし雑音を嫌ってのことでしょうか、こんなことを言っております「わたしは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハがどんな人だったかについてはまったく関心がない。関心があるのは、彼が残した音楽だ」。

冒頭の「ゴーストライター」騒動の折、男子フィギュアスケート選手として活躍されていた高橋大輔氏もこの一件に巻きこまれたひとり。

でも高橋選手がそのとき語ったことばは音楽を聴くというのはどういうことなのか、その本質を突いているようにも思えたのでした。

――「ビックリしました。このタイミングでって。勘弁してよっていうのはありました。でも正直、彼の背景とかをまったく知らずに曲を選んだ。作った人がだれであろうと、どういう形だろうとすばらしい曲」。

けっきょくクラシックだろうとロックだろうとジャズだろうと、「この音楽のこの演奏が大好き!」という聴き手本人の基準がもっとも揺るぎないものではないでしょうか。

その筋の大家がこんなふうに言っているからとか、おなじ金払って聴くなら本場の巨匠クラスの演奏家でないとダメだ、などという「外付けの基準」がまかり通っているようでは、ほんとうの意味でクラシック音楽が日本で根付くことはないと思います。

「この人のこの作品が、この演奏が、この音源が好きなんだよねぇ」、こういうことがごくふつうに語られるようになったとき、はじめてクラシックを含めた音楽芸術はわたしたちの「生活の一部」になるのではないでしょうか。

バッハ自身『クラヴィーア練習曲集第3部』開巻の辞に、こう書き記しています――「この種の楽曲の愛好家の心の喜びのために」カペルマイスターにしてライプツィッヒ市音楽監督バッハにより作曲、出版される、と。

「音楽を聴く喜び」、これがなにより重要なのです。

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