絶滅寸前のクラシック

先日、ある大型商業施設に買い物に行ったついでに、その中にある、昔よく利用していた外資系CDショップに寄ってみた。
その昔、1フロアすべてを使った広いCDショップは、クラシック売り場だけガラスで区切られた部屋のようになっていて、他の売り場で流れているにぎやかな音楽から遮断されて、静かな環境でゆっくりと商品が選べる構造になっていた。
まるで絶滅寸前のクラシック音楽に対する手厚い特別保護区域みたいなこのスペースが当時は嬉しかったものだ。
しかし十数年ぶりに覗いてみると、売り場も大きく様変わりしていた。
ガラスの仕切りは取っ払われ、半分以下に圧縮された剥き出しのクラシック売り場は、店の奥のほう、ジャズの裏側に小ぢんまりと残っているだけだった。
これ以上の繁殖が絶望的となり、予算の都合上、保護を中止され、自然に戻された絶滅危惧種を見ているような憐れな気持ちになった。

外資系CDショップも諦めた

1990年代の大型外資系CDショップには、そんなふうにクラシックコーナーだけを他の売り場と遮断したテンポがよくあった。
売り上げが全体の2~3%に過ぎないわりには専任のジャンル担当者と専用レジまで設置され、異様に手厚く保護され、品揃えも充実していたものだった。
たぶんそれが、外資系ショップとしての差別化であり、ステータスだったのだろう。
今どきこんなことを言うと冗談にしか聞こえないのかもしれないけれど、前世紀まではクラシックがステータスになり得ると考えられていた時代があったのだ。
かく言うわたしも実は若い頃、また別の外資系CDショップで、クラシック担当としてガラスで仕切られた特別保護区域の中で働いていたとがほんの数カ月だけあった。
前任の担当者が並々ならぬ情熱で特別保護に力を入れ過ぎた結果、売り上げに見合わないほどの在庫を抱えすぎてどうにもならなくなってしまった。担当を外されて、わたしが新たに採用され、送り込まれた。
しかしド新人のわたしに、そんな危機的状況を簡単に解消できるはずもなく、クラシック売り場は結局早々とゲームソフトの販売コーナーに変わることに決定し、わたしもまた辞めざるを得なくなったのだった。

それが1997年、きっと歴史上最も賑やかしいお祭り騒ぎの時代だった20世紀が、あまりの変化のスピードに、若干疲れたような顔をして終焉を迎えた頃だった。
その後、CDという音楽メディアの売り上げは減少を続け、すでに末期的とも言われる。
商売に余裕がなくなってくれば、もはやステータスなんて言ってられない。名を捨てて身を取るのは宿命である。
かく言うわたしも今では定額制配信サービスのみを利用して音楽を楽しみ、CDを買うことなどまったくなくなってしまった。
時代はめまぐるしく変わっていく。

前衛さんたちの失敗

20世紀の前半まではまだクラシック音楽はよく聴かれていた音楽ジャンルだった。
CDもスマホもなく、現在ほど簡単に音楽を聴くことが出来なかった時代なので、音楽を聴くことを趣味にしている人が絶対的に少なかったこともあるが、西洋の音楽と言えばクラシック、そしてジャズだった。
発表されていた作品も、ラヴェルのボレロが1928年、ショスタコーヴィチの5番が1937年、バルトークのオケコンが1943年、メシアンのトゥーランガリラが1949年と、まだまだクラシック音楽の名曲が生産されていたのである。
しかし20世紀も後半になるとおかしなことになっていく。
いわゆる「前衛音楽」と呼ばれる、シュトックハウゼンやブーレーズ、ジョン・ケージなどがまるで西洋音楽の最先端としてもてはやされるようになり、一般のリスナーは違和感を覚えていくのである。
作曲家も音楽マスコミもなんだか難しい言葉で、現代思想でも語るかのように音楽について語りだし、リスナーは一生懸命ついていこうとするのだけど、実際に聴いてみても、ピーとかプーとかガーとかいってるだけでちっとも楽しくないのである。
あげくのはてには「4分33秒」などと言って、なにも演奏せず、会場の騒音が音楽作品であるなどと言い出す始末だった。ユーモアだとししても、まるでトガった若手芸人がやるクソつまらないコントのようだ。

新しいリスナー獲得の失敗

それは、20世紀が革命の時代だったからなのかもしれない。
保守や伝統は悪であり、革新が正義だったから、音楽もこれまでの古き伝統を否定したものでなくてはならぬ、とでも思ったのだろう。一般のリスナーのことなんてきっとどうでもよかったのだ。
聴衆が求めるような音楽を作ることよりも、新しい思想や理論のほうが大事になりすぎて、ああでもないこうでもないと、偶然性だとか数学的理論がどうしたとか変テコな理屈をこねたり、楽譜をデザイン風にして面白がったりしているうちに、エルヴィスが現れ、ビートルズが現れ、若者たちはクラシック音楽などどうでもよくなり、20世紀後半はポップスの時代になったのだった。
クラシックは現代曲では商売にならなくなり、ただ19世紀までに残された古き良き時代の名曲を繰り返しレコードに吹き込み、どっちの演奏がいいかをああでもないこうでもないと議論することを楽しむという、風変わりでアカデミックな音楽ジャンルとして生き永らえていった。
同時代感覚のあるリアルな音楽を求める若いリスナーの獲得は困難になり、クラシックは絶滅危惧種として不安視されるようになった。
その不安からなのか、クラシック音楽は義務教育で勉強の対象となった。
そして音楽室の壁にはいかめしい顔の作曲家の肖像画がズラリと飾られ、ますます若者たちに嫌われていったのである。

新たな名曲の誕生に期待

クソつまらない屁理屈によって作られた作品は論外としても、本当は20世紀の音楽にも素晴らしい作品がたくさんあるし、19世紀までの音楽には無い魅力があるのも事実なのだ。
ブーレーズはたぶん音楽に対する理解力は凄いのに、作曲の才能はあまりなかったのだろう。だから晩年は、心を入れ替えて、聴衆の聴きたがっているクラシック作品を指揮して称賛を浴び、晩年の花道を飾った。
20世紀末にはアルヴォ・ペルトやシュニトケ、グレツキといった、新しい響きながらちゃんと聴ける感動的な「クラシック音楽」もまた発表され、一部クラシックファンの「待ってました!」とばかりの熱烈な支持は得たものの、いかんせんクラシックファン自体も絶滅寸前なので、決してネットニュースに上がってくるような一般的な話題にはならないし、ベートーヴェンやマーラーのような知名度や人気を得るには至っていないのが現状だ。
現在も、録音はされていないが楽譜だけがひっそりと存在している20世紀以降に書かれた名曲も山ほどあるに違いない。
そういうのを片っ端から、気骨のある演奏家たちに録音してほしいものだ。
名曲の同曲異演番がカタログに増え続けていくよりも、知られざる新たな名曲の録音がどんどん発表され、次々とヒット作が生まれてクラシック界が活況を呈することをわたしは望みたい。
じゃないとホント、クラシック音楽の歴史は終わってしまう。