だからクラシックは嫌われる?Part.2 ≪同曲異演盤の功罪≫

2018/10/23
クラシック

圧倒的な供給過多?

日本レコード協会作成《日本のレコード産業2017》のデータによると、2016年のCDアルバムの新譜の発売数は全ジャンル合わせて10,900タイトル。そのうち、クラシックは1,647タイトルと、実に15%を占めている。

しかし実際の売り上げの割合は、全体の1%未満なので、間違いなく音楽ジャンルとしてはダントツの供給過多だろう。
たぶん各タイトルの出荷枚数が物凄く少なく、1人当たりの購入点数が他のジャンルより圧倒的に多いのではないかと、推測される。富裕層のクラシック音楽マニア。そんなリスナー像を想像するけれども、もちろんそんな人ばかりではないはずだ。

わたしが外資系CDショップに勤めていた頃、クラシックCDを買いに来るお客さんと言えば、週末にリュックを背負って、ディスカウントCDや海外の激安廉価レーベルの商品をじっくり時間をかけて選び、ポイントカードを大事に貯めて使っている、庶民的なお客様がほとんどだった。

 

同曲異演盤をなぜ限りなく生産するのか

毎月大量に供給されるクラシックの新譜は、そのほとんどが19世紀までの名曲の、何千回目か何万回目かの録音である。若手指揮者の『運命』初録音であったり、巨匠指揮者による3度目か4度目の『運命』だったり、大昔に死んだ指揮者の録音が発掘された『運命』だったりもする。そもそもなぜクラシック音楽というジャンルはこんなふうに同じ曲ばかり録音しているのだろう?

新曲ではなく、過去の楽曲を何度も再録音することが主流であるというジャンルはたぶん他にない。いや、純邦楽などは同じようなものだし、古典演劇の狂言や歌舞伎、古典落語なども同様に繰り返し古典作品を演じている。でも、クラシック音楽はそれらとはどこか違うと思うのだ。新曲は世界中で毎日のように生まれているはずだけど、その需要が少ない。

それは、前回の記事でも書いたように、「現代音楽」というものが難しい思想や理屈を表現するためだけに作られ、その結果はピーとかブーとかギャーとか、美しく感動的な音楽を求めてやってくる聴衆のためにはまったく書かれていない、というイメージが20世紀のあいだに定着してしまったことが大きな原因のひとつとしてはあると思う。

現代音楽がそんな状況なので、レコード業界も他の音楽ジャンルのように新曲中心の商売がクラシックではできず、スター演奏家たちに同じ古典的名曲をそれぞれ録音させ、同曲異演盤を何種類も聴き比べることをクラシック音楽の楽しみとしてお薦めすることで、なんとかかんとかクラシックのレコード・CDでの商売が成立していたのだろう。おかげで20世紀もクラシック音楽というジャンルは絶滅せずに済んだようだ。

そうでなければ、それこそ歌舞伎や狂言のように、古典芸能として専用の劇場でだけ演じられるものになっていたのかもしれない。巨匠指揮者やスター演奏家にスポットを当て、それらがどう演奏するかという興味をリスナーに与え、同曲異演盤を比較しながらどれが一番の名演かを評論家たちが投票する企画が定期的に雑誌で行われる。あるいは個性的な評論家たちが各々の切り口で、名曲・名演盤をお薦めする本が限りなく出版され、読者はそれを読みながら自分の好みと比較して一喜一憂したり、買い物リストを作ったりして楽しむのである。

少し大きめの本屋で、音楽本のコーナーに行くと、人気の無さのわりにはものすごく多くのクラシック本が並んでいて驚く。そして、その大半が、クラシックビギナーやクラシック中毒者に向けて「名曲名盤」をお薦めする本である。かく言うわたしも、そんな本を何百冊読んだかわからない。やっぱり楽しいのだ。なけなしのお金で間違いのない買い物をしたい、最高と称賛される演奏を聴いてみたい、そんなモチベーションで、われわれはクラシック音楽を聴き続けるのである。

 

『名曲名盤』本の功罪

でもあの「名曲名盤」本が、またクセ者なのだ。

ビギナーにとっては、クラシック入門には欠かせない便利なガイドブックであると同時に、あらためてクラシックのハードルの高さを感じた人もいるにちがいない。わたしもそのひとりだった。ベートーヴェンの交響曲の最高の演奏として複数の評論家たちが挙げる、60年以上前のフルトヴェングラーやワルターの録音を挙げられても、あまりの古色蒼然とした録音と聴き難さに驚いたものだった。なにが最高なのかさっぱりわからず、それ以来、歴史的録音のようなものを聴くことは二度となかった。

さらに、カラヤンだのヴァントだの、ポリーニだのアルバン・ベルクSQだのと言われても、録音は鮮明で聴きやすくて全然いいのだけど、それが他の演奏と比べてどう良いのかがわからない。わたしには演奏の善し悪しがわからないから、クラシックを聴く耳も資格もないのかしら、と思わないではいられなかったものだ。

 

名盤とは、個人的名盤のこと

でも今となっては、長年の経験から言って、ほとんどの場合は最初に買って繰り返し聴き込んだ「運命」のCDが自分にとって「運命」の基準になるものだ。他のものを聴いても違和感しか感じなくてもあたりまえで、評論家の先生方が誰ひとり名盤として挙げていなったとしても、それがその人にとって最高の「運命」になっていることが多いものである。それで全然いいと思う。

ただ、時には、その録音の感じやテンポの違いなどで、どこがどうとはよくはわからないものの、昔から聴き慣れたCDを超えてくるぐらい琴線がビリビリと震えるものに出会う経験もまた、実際にあるものだ。それはそれで、新たな自分にとっての名盤の発見になるわけだ。

だから同曲異演盤探しは楽しいけれども、あの評論家の先生たちが推薦しているものも、各々が個人的に聴き慣れた演奏や琴線ビリビリの演奏であって、だれが聴いても絶対に同じように素晴らしいと感じるわけではないのだ。おじいさん世代たちが聴き慣れた「名盤」を若い世代が無理やりわかろうとする必要はなにもないのである。

 

一生同じ名曲

わたしは自分だけの「運命」の個人的名盤を見つけたら、もう「運命」はそれで納得して、次は別の、まだ聴いたことのない曲を聴くようにしてきた。だって、いくら名曲と言っても、何十年も同曲異演を聴き比べているだけでは、さすがに飽きる。もっと違う曲を聴いて、新しい感動に出会いたい。

20世紀以降のクラシックがあまり聴かれないのは、クラシックファンが同曲異演盤を聴き比べすることに時間もお金も使いすぎているからではないか、とわたしは憂慮している。20世紀のクラシック音楽は、実はピーとかブーとかギャーとかばかりではないのだ。美しく、感動的な曲もいくらでもある。

聴き慣れた曲を聴くのは楽チンだけど、新しい曲を聴くのはちょっとしたエネルギーもいる。それがしんどくて、どんどん新しい曲を聴くことから遠ざかっていってしまう、ということもあるだろう。しかし、これからもまだまだクラシック音楽が、骨董的な文化財のようにではなく、生き生きとした状態で生き延びていくためにも、リスナーが新しい名曲を求め、演奏家とレコード会社は競い合うように「新たな名曲」を発掘し、録音されるような状況になってくれないかなあと願うものである。

前回の記事:だからクラシックは嫌われる?Part.1 ≪前衛さんたちの失敗≫

 

資料【参考盤】

▼わたしにとって聴き慣れた演奏なので、これ以外の名盤を薦められてもピンと来ないという、自分だけの名盤の実例。

『バッハ:無伴奏チェロ組曲全曲』ピエール・フルニエ(vc) PHILIPS

 

『ショスタコーヴィチ:交響曲第5番』ハイティンク指揮コンセルトヘボウo. LONDON

 

『ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲』パールマン(vn) ジュリーニ指揮フィルハーモニアo. EMI

 

▼美しく感動的な20世紀音楽の一例。

『タブラ・ラサ/アルヴォ・ペルトの世界』ギドン・クレーメル(vn)他 ECM

 

『グレツキ:交響曲第3番〈悲歌のシンフォニー〉』ジンマン指揮ロンドン・シンフォニエッタ Elektra Nonesuch

 

『ショスタコーヴィチ:ピアノ五重奏曲』アシュケナージ&フィッツウィリアムSQ LONDON

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