【第二のオーストリア国歌】~美しく青きドナウ誕生物語~

2019/01/18
クラシック

クラシック音楽で年末の定番は、とくると、日本では断トツでベートーヴェンの『第九』こと、『交響曲 第9番 ニ短調  Op.125』ですね。では新年を飾るクラシック音楽の定番は? とくると、「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート」でもおなじみのワルツ王、ヨハン・シュトラウス2世のウィンナワルツや、父親のヨハン・シュトラウス1世の残した『ラデツキー行進曲』といった作品になるのではないかと思います。今回は、シュトラウス一家のウィンナワルツでも知らぬ者はいない不滅の名曲、『美しく青きドナウ』誕生にまつわる物語です。

 

最初は書くのがイヤだった?!

ヨハン・シュトラウス2世は、父とおなじくウィンナワルツの作曲家として知られていますが、父のシュトラウス1世はすわ商売敵の出現(?)と思ったか、長男シュトラウス2世へのイヤがらせがすごかったとか。長男にこんな浮草稼業はやらせたくないという親心から出たもの、というのがほんとうのところだったようですが、1849年にその父が世を去ると、シュトラウス2世は父の楽団を自分の楽団に吸収して活動を一本化し、興行主としての才能をいかんなく発揮。あまりの忙しさに過労で倒れた兄シュトラウス2世の代役として母アンナに声をかけられた次男坊ヨーゼフ、そしてのちには末弟エドゥアルトもまた音楽家の道を歩むことに。結果的にシュトラウス・ファミリーは、バロック音楽の大成者バッハ一族と肩を並べるほどの音楽一族として名を成すことになります。

 

1866年7月、ハプスブルク家が統治するオーストリア帝国がプロイセンとの戦争で手痛い敗北を喫し、帝国の領民、とりわけワルツ大好きな貴族たちは舞踏会でのんきにワルツを踊るどころではなくなりました。当時のウィーンの空気はいまの日本にも似ているような気もしないわけではないけれども、それはともかく、このいかんとも形容しがたいどよーんと沈み切った人心を鼓舞するようなワルツを一本、書いてくれない? と、宮廷楽長でウィーン男声合唱協会の指揮者だった親友ヨハン・ヘルベックから作曲依頼を受けたシュトラウス2世氏。でもはじめはあんまり乗り気ではなかったようで、「合唱曲書いたことないからパス」みたいにお断り申し上げていたとか。ところがヘルベックはシュトラウス2世の才能に惚れこんでいたのか、再三、お願いに行っては断られを繰り返しています。相手の熱意に根負けしたか、シュトラウス2世もついに重い腰を上げて、不朽の名ワルツとして名を残すことになる作品に取りかかります(この依頼をシュトラウス2世がしぶったのは当時、契約していたロシアの鉄道会社と契約更新をめぐってゴタゴタがあり、それどころではなかったから、ということのようです)。

ちなみにこのヘルベックという人、シューベルトの『未完成交響曲』の再発見者として有名ながら、自作についてはほとんど顧みられていない作曲家のひとりと言えるかと思います。彼の絶筆が、なんとオルガン付きの『交響曲 ニ短調』なる作品! サン=サーンスが『交響曲 第3番 Op.78 オルガン付き』を発表するわずか9年前、まったくおなじような発想で交響曲をものしていたことになります。ユングの言うシンクロニシティ[共時性]というやつでしょうか。

『交響曲 ニ短調[交響曲 第4番 Op.20, 死後初演:1878]』

[演奏:イレーネ・ペロ(オルガン)/ マルティン・ハーゼルベック指揮、ハンブルグ交響楽団]

 

最初は曲名もなく、歌詞に「ドナウ川」のドの字さえなかった?!

そんなこんなで作曲に取りかかったシュトラウス2世は当初の約束の期日に仕上げることができず、男声合唱協会に無伴奏四部合唱用として提出したのが依頼から約2年後の1867年。その後すぐ、「汚い走り書きで恐れ入ります。2、3分で書き終えないといけなかったもので」という釈明付きのピアノ伴奏譜も提出してなんとか約束を果たしたシュトラウス2世ですが、そのときは『美しく青きドナウ』という現行の曲名さえなく、当時の新聞発表の文面も「宮廷舞踏会監督ヨハン・シュトラウスによる合唱と管弦楽のためのワルツ。ウィーン男声合唱協会に献呈(書き下ろし)」とだけあったそうです。かつて父シュトラウス1世が書いた『ドナウ川の歌 Op.127』と、ハンガリーの詩人カール・イシドール・ベックの詩『ドナウのほとりにて』から、この曲名に落ち着いたのではないかと考えられています。ただしだれがこの曲名に決めたのかは、いまもわかっていません。

さてこのとき使われた歌詞は、本業が警察官(!)という風刺詩人ヨーゼフ・ヴァイルの手になる詩だったのですが、その出だしというのが

元気を出せ、ウィーン子よ!
おう、なぜだ?
まわりを見てごらん!
なぜだってば?
一筋の光明!
なにひとつ見えん
カーニヴァルなんだぞ!
ほお、それで?
時代に負けるな!
なるほど、時代ね!
ユウウツに負けるな!
ごもっともなお説!

とまあ、こんな調子。農民も地主も芸術家も政治家もイヤなことはきれいさっぱり忘れ、「踊れ踊れ、そら踊れ!」とけしかける内容だったためなのか、この合唱版が1867年2月15日、ディアナザールという音楽堂で初演されたときのウィーン子たちの反応はまずまずだったものの、当のシュトラウス2世にとっては不本意な結果だったようで、「ワルツは迫力不十分だったかもしれない」と後年、手紙に書いています。

ところがヴァイルの風刺のたっぷり効いた歌詞には、「ドナウ川」のドの字も出てきません。この事実から見ても、歌詞とまったく無関係な曲名が最後の最後になって、ええいもうこれでいっちゃえ! 的なやっつけ仕事で付された性格のものであることはまちがいないでしょう(気持ち的には、わからなくもない)。

 

管弦楽版『美しく青きドナウ』

 

パリ公演の大成功、そして「第二の国歌」へ

初演が興行的に不満だったシュトラウス2世は、この作品からヴァイルの歌詞と長いコーダを取り払った管弦楽のみの版をあらためて用意し、この新しい版を3月10日にフォルクスガルテンで披露。そして4月になると、万国博覧会が開かれていたパリで演奏し、絶賛を浴びます。気をよくしたシュトラウス2世はその後のロンドン公演、そして1872年6-7月に行われた米国ボストン公演でも大成功を収めます。1874年ごろ、高まるいっぽうの作品評価を印象づけるように、ウィーンの音楽批評家エドゥアルト・ハンスリックがこう評しました「皇帝と王室を祝ったパパ・ハイドンの国歌とならび、わが国土と国民を歌ったもうひとつの国歌、シュトラウスの『美しく青きドナウ』が生まれた」。でもこの段階ではまだ現行の歌詞にはなっていませんでした。

シュトラウス2世はこの作品に何度か手を入れていますが、1890年になって、ヴァイルとおなじく男声合唱協会付属の詩人だったフランツ・フォン・ゲルナートが新しい歌詞を提供したことで、ようやくこんにち見るかたちとなり、文字どおり美しい抒情詩ワルツ作品へと生まれ変わったのです。

いと美しく青きドナウよ
谷を越え野をつらぬき おだやかに流れゆく
われらが都ウィーンは あなたにあいさつを送ろう
あなたの銀色の帯は 土地と土地を結び
その美しい岸辺に立ち わが胸は歓喜に高鳴る

1899年6月3日、ヨハン・シュトラウス2世は73歳でこの世を去ります。ウィーンに生き、ウィーンに没した生粋のウィーン子でした。当日の午後、たまたまフォルクスガルテンで野外演奏会が開かれていて、ウィーンの生んだ天才音楽家の死の報に接した指揮者エドゥアルト・クレスマーは詰め掛けていた聴衆に手短にシュトラウス2世の訃報を伝えると、楽団に向き直って『美しく青きドナウ』を演奏したと伝えられています。

19世紀の音楽都市ウィーンを体現したようなシュトラウス2世の残したこの傑作は、管弦楽版の演奏が一般的ですが、ときおり「ニューイヤーコンサート」でも演奏される、オリジナルの合唱版を心洗われる少年合唱でどうぞ。

合唱版『美しく青きドナウ』[演奏:ウィーン少年合唱団]

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