2020年3月5日、新型コロナウィルスでヨーロッパがロックダウンに入る直前、ラン・ランはバッハの最高傑作と言われる『ゴルトベルク変奏曲』を聴衆の前で演奏しました。
 
会場はバッハが30年近く、音楽監督をつとめたことで知られるライプツィヒの聖トーマス教会。演奏の際、ラン・ランは、教会内にあるバッハの墓にひざまずき、花を捧げました。
 
そのときのライブ録音と、10日後にレコーディングされたスタジオ録音盤のセットが、初回限定デラックス版として、ドイツ・グラモフォンから9月4日に発売されます。
 

案内人

  • だいこくかずえ小さな頃からピアノとバレエを学び、20歳までクラシックのバレエ団に所属。のちに作曲家の岡利次郎氏に師事し、ピアノと作曲を10年間学ぶ。職業としてはエディター、コピーライターを経て、日英、英日の翻訳を始め、2000年4月に非営利のWeb出版社を立ち上げる。

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ラン・ランとゴルトベルク変奏曲

ラン・ランと『ゴルトベルク変奏曲』というのは、やや意外な組み合わせにも見えます。しかしラン・ランはこの曲を10代の頃から勉強し、いつか演奏したいと夢見てきました。
 
実は17歳のとき、ラン・ランはエッシェンバッハをはじめとするそうそうたる音楽家たちの前で、この曲を弾いていました。
 
それはラヴィニア音楽祭で、ラン・ランがアンドレ・ワッツの代役として、チャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』をシカゴ交響楽団とともに演奏した晩のことでした。
 
コンサートは大成功、終演後も居合わせた人々はこの若き演奏家に興奮冷めやらず。もっとラン・ランのピアノが聴きたいという熱いリクエストに応えて、真夜中のプライベート・コンサートが開かれました。
 
そこでランランが弾いたのが『ゴルトベルク変奏曲』でした。ラン・ランが代役をつとめたアンドレ・ワッツも、16歳のときグレン・グールドの代役をつとめ、そのときこの曲を弾いたそうです。
 
ラン・ランはこの作品について、とても特別で創造的な作品というだけでなく、非常に「多次元的」な曲と語っています。掘れば掘るほど様々な局面が現れ、弾くたびに新たな発見がある、とも。
 

動画1(プロモーションビデオ「アリア」)

ラン・ランによる「アリア」の解説

発売を前にした7月初旬、主題の「アリア」の部分のみが、YouTubeやストリーミング・サービスで公開されました。
 
それとは別に、ラン・ランが自らピアノを弾きながら、「アリア」について解説したビデオを見つけたので、その内容をかいつまんで紹介します。
 
ラン・ランは最初の8小節を弾いてみせます。
 
最初の音を弾いたとたん、ピアニストはこの美しい曲に没入します。そしてバッハとの対話が始まるのです。
 
続けて「シンプルにバスのラインである頭の拍に従っていけばいい」と言い、バスに乗せた和声進行を弾きます。(バス:ト長調でド、シ、ラ、ソ、ミ、ファ、ソ、ド)

 
2部形式の後半部分(17小節目~)に入ると「マジカルな瞬間」が訪れ、21小節目から「もがきや苦しみ」が始まり、25小節目では「哀しみ」に包まれる、と語ります。そしてそこから抜け出そうと、出口を探し続け、最後はごくシンプルに、曲のすべてを胸に抱いて終わる、という解釈です。
 
30の変奏曲を弾き終えたあとに再び現れる「アリア」ついて、ラン・ランはこう語ります。
 
ここまでの85分間で、美の体験、苦悶、哀しみの体験をしました。その体験とともに、このアリアに帰ってくる。直感に従い、記憶を再現するように、ただ弾けばいい。何も余分なことをする必要はないのです。
 

動画2(ラン・ラン「アリア」解説)

ラン・ランにとってのライブ録音とスタジオ録音

今回二つのバージョンを同時リリースしたことについて、ラン・ランは次のように語っています。
 

ライブは、心のままに演奏する自然発生的なものです。それに対して、スタジオ録音は、考え抜かれた内省的な演奏です。ライブでは100分の作品を一つのものとして一気に弾きます。スタジオでは一つ一つの細部やニュアンスにこだわり、それが音楽体験にもおおいに影響します。

聴衆がいたことに加え、バッハゆかりの聖トーマス教会で演奏したことは、ラン・ランにとって、「信じられないほどの心のときめき」であり、「弾いている間、かつて経験がないほどバッハに近づけた」体験になったようです。
 
ライブ録音に加えてスタジオ録音をする必要性について、「完璧な演奏家である必要もあるから」と説明し、その意味で、1回のチャンスに賭けるライブ録音は難しい面もある、と述べています。
 

賛否両論、ラン・ランという演奏家

ラン・ランは若くしてアメリカで成功し、「メガスター」「グールドやホロヴィッツに続く歴史的名演奏家」「バーンスタインの意志をつぐ教育者」などの称賛を受けてきました。
 
一方でその演奏スタイルをあまり好まない人、大仰だと否定的に見る人もいます。「すべてが過剰。ユニークではあるけれど、解釈はときに破滅的」「彼には規律というものがない。音楽に対するリスペクトが足りないのでは」「それがスタイルなのかもしれないが、彼のルバートは過剰だと思う」などなど。
 
そんな中、興味深いエピソードを語る人もいました。「ある晩、空っぽのホールで、ラン・ランがウォームアップしているのを覗き見る機会がありました。ピアノに向かってバッハを弾きはじめたのですが、非常に美しく精緻な演奏で、聴衆の前のいつもの弾き方とはまったく違っていました」(元オーケストラのバイオリン奏者)。
 
ラン・ランは聴衆とともに楽しむため、あるいは音楽業界やその他のショービジネスの期待に応えて、「自らを外に持ち出すことをいとわない」演奏家なのかもしれません。
 
北京オリンピックのときのホワイトメタリックな衣装での演奏、ヘビメタのメタリカやビリー・ジョエルとの共演、NetFlexの人気ドラマシリーズ「モーツァルト・イン・ザ・ジャングル」へのゲスト出演、アディダスとのコラボシューズ販売など、クラシック界ではあまり見ない越境ぶりです。
 
ラン・ランは弱冠20歳のときのインタビューで、聴衆の音楽への理解について、次のように述べています。
 

心を少しつかえば、音楽の意味するところを誰もが理解できます。なぜならそれは人生だから。人間性なんです。たとえ国が違って、考えも違い、言葉が違っていても、みんな人間です。そして誰もが同じような魂をもっています。それが人間だと思います。

ラン・ランの演奏がときに「ショーマンシップの発揮のしすぎ」に見えるのも、それがラン・ランのスタイルだからということに加えて、いかにクラシック音楽をみんなのものにするかに、いつも心を砕いているからなのかもしれません。
 

ゴルトベルク変奏曲を弾いたピアニストたち

1950年代にグールドがヒットさせ、その後数々のピアニストたちがこの作品を録音してきました。
 
この記事を書くにあたって、15人の「アリア」を聴き比べてみました。シュ・シャオメイ、イゴール・レヴィット、アンドラーシュ・シフ、高橋悠治、キース・ジャレット(クラヴィーア)などの演奏家たちです。
 
ラン・ランの「アリア」を他の奏者の「アリア」と聴き比べてみて、二、三気づいたことがありました。
 
ラン・ランの演奏はまず、非常にゆっくりであること(5:21)、グールドの繰り返しなし(3:05)に次ぐ遅さ。他の人は繰り返しありでおおよそ4分前後でした。
 
演奏法においては、ラン・ランは繰り返しでは装飾音をやや増やし、11小節目の頭のアルペジオを1回目は下から弾き、2回目は上から(こちらの方が多数派)弾いています。自由奔放なようでいてテンポのコントロールは正確で、繰り返しの際は、前半で2秒、後半で3秒余裕をもたせていました。
 

まとめ

「アリア」を聴いただけでも好奇心をそそられるラン・ランの『ゴルトベルク変奏曲』。ストリーミング・サービスではおそらくスタジオ録音盤のみになると思われ、そうなるとライブ盤入りのデラックス版が欲しくなりますね。