生涯独身で、貴族の令嬢にアタックしてはフラれてを繰り返していたベートーヴェン。その対極が「音楽の父」バッハですが、そんな彼にも深く愛した女性が少なくとも3人はいました。
バッハの意外な一面と生い立ちについてご紹介します。
バッハと女性❶:母エリーザベトの早すぎる死
アイゼナハの「バッハ・ハウス」
from Wikimedia Commons, ©File:Eisenach Frauenplan Bachhaus.jpg
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)が最初に愛した女性は、当然のことながら彼の産みの母でした。
バッハは、父アンブロージウス・バッハと、母マリア・エリーザベト・レンマーヒルトのあいだに8人兄弟の末っ子として中部ドイツのアイゼナハに生まれました。
父と母は『カノン』で有名なヨハン・パッヘルベルの活躍した中部ドイツのエアフルト出身。父アンブロージウスは「シュタットプファイファー」と呼ばれる、塔の上からラッパを吹奏して時を知らせる街楽師のひとりでした。アンブロージウスは宮廷楽師でもあり、ヴァイオリンの名手だったと伝えられています。
母エリーザベトの生涯については不明ですが、ひとつ確実に判明していることがあります。それはバッハが9歳だった1694年5月に突然この世を去ってしまったということです。幼い少年バッハにとって、これはあまりにも受け入れがたい人生最初の試練でした。
ここから悲劇は続きます。翌年、父アンブロージウスまで、母の後を追うように他界したのです。両親が相次いで亡くなったことで一家は離散を余儀なくされました。バッハは14歳離れたいちばん上の兄ヨハン・クリストフ(1671-1721)一家に3歳下の弟とともに居候することになり、生まれ故郷アイゼナハを離れ、見知らぬ土地のオールドルフへ向かいました。バッハの人生の旅はこうして始まったのです。
バッハと女性❷:またいとこマリア・バルバラとの結婚
1707年10月、当時22歳の若き教会オルガン奏者であったバッハは、「またいとこ」に当たるマリア・バルバラ・バッハとドルンハイム村の教会でささやかな結婚式を挙げます。このころ作曲されたと言われているのが、有名な『フーガ ト短調 BWV578』です。
バッハ『フーガ ト短調 BWV578(小フーガ)』 オルガン独奏:チャーリー・ブラスクィーニ
バルバラはバッハのひとつ上の姉さん女房。
ふたりが親しくなったのは、互いの幼少期の境遇があまりにも似ていたためだと言われています。
彼女もまた父を、次いで母を立て続けに失っていたのです。
バッハとバルバラのあいだには長男ヴィルヘルム・フリーデマン、次男カール・フィリップ・エマヌエル(幼くして亡くなった兄がいるため、正確には三男坊)を含む7人の子どもが生まれましたが、このうち成人したのは4人だけ。
当時の乳幼児死亡率の高さが、バッハを「子煩悩」な家庭人にしたのかもしれません。そう、実はバッハは現代でいうイクメンであったのです。
しかし、またしても予期せぬ悲劇がバッハを待ち受けていました。
1720年7月、バッハ35歳のときでした。
仕えていたケーテン公レオポルトの随伴旅行から帰宅すると、そこには泣きじゃくる子どもたちがいたのです。
困惑するバッハに子どもたちは、母バルバラが突然の病で急死して、すでに埋葬まで終わっているという驚くべき事実を告げます。
4人の子どもを抱えて途方に暮れる男やもめバッハは、次第に再婚を考えるようになっていきました。
バッハとバルバラが結婚式を挙げたドロンハイム教会
© Wikimedia Commons
バッハと女性❸:16歳年下の美人歌手と再婚!!
ちょうどそのころ、バッハはケーテン宮廷にて、美声の持主であるソプラノ歌手のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケに惹かれ始めます。
しかし、マグダレーナはバッハの16も年下(!)の20歳のお嬢さん。いくらバッハを尊敬していたとしても、この「年の差婚」に踏み切るのは、当時としてはそうとう勇気が要ることだったでしょう。
それでも翌年、バッハとマグダレーナはめでたく結婚。夫婦仲も良く、バッハはこの後妻をたいへん可愛がったと言われています。
夫婦仲のよさを証明するかのように、ふたりは13人の子どもをもうけています(うち、成人したのは6人)。
こうしてみるとバッハという人は、ひとりの女性をとことん愛するタイプだったのではと推察されます。それはやはり、9歳のときに母エリーザベトと死別した体験が大きく影響しているように思われてなりません。
1723年、バッハ一家はライプツィヒの聖トーマス教会付属学校の新居に引っ越します。
生徒の寄宿舎の一角にある新居は手狭で、ただでさえ子だくさんの家庭に弟子が出入りしてと、じつに賑賑しかったと伝えられています。しかしこの喧騒こそ、かつて孤児だったバッハにとってまさに望んでいた理想的な家庭の姿だったのかもしれません。
1750年にバッハが65年の生涯を終えると、内助の功の鏡のようなマグダレーナには辛すぎる後半生が待っていました。先妻のふたりの息子ヴィルヘルム・フリーデマンとカール・フィリップ・エマヌエルが、第一相続人のマグダレーナに父の遺産である楽譜を渡さず、遺産の査定が終わる前に勝手に持ち去ってしまったからです。晩年のマグダレーナは困窮のうちに没したと伝えられています。
バッハ一家の合奏風景を描いた絵画
トビー・エドワード・ローゼンタール、1870;© Wikimedia Commons
バッハの旋律に隠された想い
バッハが愛したふたりの妻、バルバラとマグダレーナもまた、夫の創作活動に深く関わっていました。
とくに後妻のマグダレーナがバッハの自筆譜を筆写したと言われている楽譜の筆跡は、バッハの直筆と判別不能なほど酷似しており、バッハ研究者泣かせとなっているのは有名な話です。
そんな妻をねぎらうためか、バッハは妻の名を冠した『アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帖』というプライベートな曲集を編んで妻に捧げています。
そのなかには、のちに対位法技法の限りを尽くした傑作『ゴルトベルク変奏曲 BWV988』の主題となるクラヴィーアのための美しい『アリア』や、「バッハのメヌエット」として知られている小品が含まれています。
『アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帖』からアリア「御身がそばにあるならば BWV508」オルガン編曲版
オルガン独奏:ヴィレム・ファン・ツヴィレルト
ではバッハは、若くして先立った先妻バルバラには作品を残しているのでしょうか?
たしかな記録こそありませんが、間接証拠からして「バルバラの死を悼んで作曲されたにちがいない」と一部研究者が考えている作品が存在します。それが『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番 ニ短調』終曲の長大な「シャコンヌ」です。
この仮説には、「あれは舞曲だ!」と著名な鍵盤楽器奏者のグスタフ・レオンハルトが異を唱えました。
しかし、復活祭用コラールの定旋律が暗号のように隠されていることや、バッハが楽譜を起こした紙の製造年代がバルバラの亡くなった年と同時期であることが指摘されています。
さらには自筆譜(バッハの場合、直筆譜が残されていること自体が珍しい)にも、バルバラの亡くなった1720年を示唆する書き込みがあることが判明しています。
それでも本当のところはわかりません。ただひとつ言えるのは、このシャコンヌには聴く者の心を強く揺さぶる、何かとてつもない感情が宿っているということです。(ちなみに「ニ短調」という調性は、バッハ未完の大作『フーガの技法 BWV1080』とも同じ)
というわけで、いまだ世界中が新型コロナウイルスに翻弄されているなかではありますが、筆者はひっそりとバッハ336回目の誕生日(グレゴリオ暦では3月31日、当時の暦では3月21日)をお祝いしたいと思います。
バッハ『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番 BWV1004』から終曲「シャコンヌ」
演奏:佐藤俊介
使用楽器:コルネリウス・クレインマン(ca. 1684)