クラシック音楽史を彩る大作曲家の陰には美しきミューズの存在…も、欠かせない要素かと思っていますが、よきライバルもまた、必要不可欠なのかもしれません。ときにおなじ釜のメシを食べ、ときに反目しあう。今回は、筆者の独断で選んだクラシック音楽のライバル関係いろいろ。

理想的なライバル関係、ヴェックマンとフローベルガー

理想的なライバル関係の代表としてまず思いつくのが、初期ドイツバロックの鍵盤楽器の巨匠マティアス・ヴェックマン(1616?-1674)と、ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー(1616-1667)。このふたりがはじめて出会ったのは1649年ごろのこと。当時、ドレスデン宮廷オルガン奏者をつとめていたヴェックマンの雇い主のザクセン選帝侯が歓迎の意味もこめて、「うちのヴェックマンとそなたとどちらが腕が立つか、競演してみよ」というわけで夢のチェンバロ演奏対決が実現! このときふたりは互いの技量の高さを認め、対決が終わったあとは互いの健闘を称えあったとか。

これがきっかけとなり、ヴェックマンとフローベルガーは親交を結びます。以後、ふたりはたがいの作品を贈りあったりと、『赤毛のアン』ふうに言えば「腹心の友」となったのですが、じつはこのふたりの出会いこそ、その後の鍵盤音楽の発展に多大なる影響を与えることになるのだからおもしろいところ。

フローベルガーはおもにウィーンのハプスブルク家に仕えていた鍵盤楽器奏者でしたが、ローマで鍵盤音楽の巨匠ジローラモ・フレスコバルディに師事したのを皮切りにパリ、ロンドン、ブリュッセルと文字どおりヨーロッパ大陸を股にかけて活躍したコスモポリタンの先駆けみたいな音楽家。その彼から直接、イタリアやフランスの最新様式を吸収したのがヴェックマン。彼はその後、ドレスデンから北ドイツのハンザ同盟都市ハンブルクに拠点を移し、当地の聖ヤコビ教会オルガン奏者の地位に終生、留まります。つまりフローベルガーとヴェックマンの交流がなかったら、その後のドイツ鍵盤音楽の発展のしかたはまるでちがったものになり、当然、バッハの音楽もまたその姿を変えていたことになります。

出典:ヘルマン・ケラー著、中西和枝ほか訳『バッハのオルガン作品』[音楽之友社、1986]から。なおフローベルガーとヴェックマンを結ぶ実線、およびプレトリウスとヨハン・クリストフ・バッハを結ぶ点線は、引用者が追加したもの。

フローベルガー作品で現存するのはオルガンやチェンバロといった鍵盤音楽の作品がほとんどですが、その最大の功績は、アルマンド・クーラント・サラバンド・ジーグの四つからなる「鍵盤楽器のための組曲」スタイルを確立したこと。また、標題音楽の先駆者でもあり、『ライン渡河の船中で重大な危険に遭遇して作曲』とか、『私の来たるべき死についての瞑想』というユニークな曲名の作品もあります。とくに『ライン渡河の船中で…』では登場する26の音型にそれぞれ「ミッターナハト氏は…小舟から身を乗り出し過ぎてしまい / ライン川に落水した / 船上はてんやわんや / …フローベルガーもようやく目を覚まし、神に祈った…」といった説明が付され、ライン川渡りでの「事件」の顛末を音楽で描写した、すこぶるおもしろい作品に仕上がっています。

フローベルガー『組曲 第27番 ホ短調 アルマンド「ライン渡河の船中で重大な危険に遭遇して作曲」』[チェンバロ独奏:トーマス・ラゴスニッヒ]

ヴェックマン『トッカータ ニ短調』[オルガン独奏:シリル・パロー]

イジわるな親戚にしてよきライバル? バッハとヴァルター、+ジルバーマン

大バッハの同時代人としてまっさきに思い浮かぶのはやはりおない年のヘンデル…ですが、もうひとり、ライバルと言ってよい人物がいます。それがヨハン・ゴットフリート・ヴァルター(1684-1748)。クラシック音楽史におけるヴァルターの名はドイツ語で編まれた初の音楽事典(Musicalisches Lexicon)の編集者として知られていますが、彼もまたすぐれた鍵盤楽器奏者・作曲家で、しかもバッハとは親戚どうし。バッハがヴァイマール公国の宮仕えをしていた20代、ヴァルターもまたおなじ宮廷の音楽教師兼ヴァイマール市立教会オルガン奏者をつとめていたこともあり、ヴァイマール時代のバッハは親戚にしてよきライバルのヴァルターの家によく顔を出していたようです。

さてあるとき、朝食に招かれてヴァルター家にやってきたバッハ。クラヴィーアの譜面台にはいろいろ楽譜が載っており、バッハはいつものように楽器の前に座ると初見でつぎつぎと弾きはじめた。ところがある曲の譜面にくると、バッハの手は途中で止まります。ジッと凝視し、またぞろ弾きはじめるもまたもやおなじところで手が止まる。そこでバッハはしてヤラレタと思いつつ、こうつぶやきます――ダメだ! なんでも弾いてのけられるってもんじゃない、とんでもないことだ! いっぽう、してヤッタリのヴァルターは朝食を用意しながらとなりの部屋でくすくす笑っていた、とフォルケルの『バッハ伝』はユーモアたっぷりに伝えています。

ライバルついでに、オルガン建造家のゴットフリート・ジルバーマン(1683-1753)も、バッハの好敵手だったかもしれません。作曲家というより、オルガンのヴィルトゥオーゾとしての名声のほうが生前は高かったバッハ。新オルガンの鑑定に招待されることも多く、中部ドイツ各地に出向いてオルガンの鑑定を行っています。ただしその鑑定はかなりシビアだったようで、高名なオルガンビルダーだったジルバーマンにも歯に衣着せぬ批判を浴びせ、いっときふたりは疎遠になったことも。それでもあとでよくよく考えてみるとなるほどバッハ氏の言うとおり、とジルバーマンは気を取り直して、もっとよい楽器を作ってやろうじゃん、と奮起することも少なくなかったようです。バッハは総じてジルバーマンの楽器を高く評価しており、現在もバッハ作品の演奏の基準となる歴史的オルガンとしてこのジルバーマン建造のオルガンが録音でよく使用されたりします。

あるときバッハは、当時ジルバーマンが採用していた調律法を「けったいだ」と考え、変イ長調の和音をこさえて彼を皮肉った、とも伝えられています。そして、フローベルガーとヴェックマンの夢の対決から数十年後、ふたたびおなじドレスデンで相まみえたのが、バッハと、フランスの鍵盤楽器奏者ルイ・マルシャン(1669-1732)…のはずだったのがけっきょくマルシャンは対決会場には姿を見せず、バッハのワンマンショーになったことは有名な逸話。そして1720年、かつてヴェックマンがオルガン奏者をつとめたハンブルクのおなじ教会のオルガン奏者の選考試験を受けたのが、当時35歳のバッハその人だったのです。

ヴァルター『パストレッラ』[オルガン独奏:ヤン・J・ファン・デン・ベルク]

亡き父の幻影を見ていた? ヴァーグナーとニーチェの場合

ロマン派音楽のライバルもしくは好敵手、という組み合わせは、シューマンvs. ブラームス、それともやはり互いの音楽に敬意を表していたショパンとリストでしょうか? たとえばブラームスは最後の交響曲ではバッハのカンタータ第150番の最終合唱の主題をアレンジしたパッサカリア[またはシャコンヌ]形式で締めくくるという、当時からすれば時代錯誤的ととられかねない、古い時代の音楽素材を盛りこんだ曲作りを行っています。

その対極に位置するのが、リヒャルト・ヴァーグナー(1813-1883)。そして、彼の音楽の革新性に心酔したひとりの若い哲学者も現れます。のちに「神は死んだ」という強烈な警句を吐くことになる、フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)です。

ヴァーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を観て強い衝撃を受けたニーチェは1868年、ライプツィヒでヴァーグナーとはじめて出会い、ショーペンハウアーの代表作『意志と表象としての世界(1819)』の話ですっかり意気投合。当時ニーチェは24歳の哲学科の学生、かたやヴァーグナー55歳。奇しくもヴァーグナーは、ニーチェが5歳のときに亡くなった父とおない年でもあったことから、ニーチェは亡き父の面影を彼に見たのかもしれません。またニーチェは文才のみならず、ピアノ演奏もたしなみ作曲も手がけるなど、音楽の才にも恵まれた人。たとえば1871年のクリスマスに、ヴァーグナーの妻コジマに自作のピアノ4手のための作品『除夜の余韻――行進歌、農民の踊り、深夜の鐘とともに』を献呈しており、この作品は翌年発表の処女作『悲劇の誕生』の片割れとの意識が彼にはあった、と言われています(『悲劇の誕生』は事実上のヴァーグナー礼賛みたいな本。ちなみに『音楽中辞典』にもニーチェの項目があり、哲学者なのに音楽事典に記載があるのはニーチェくらいのものではないか、と思っています)。

しかしながらかつて政治犯としてお尋ね者になったり、「不倫は文化(?)」的な豪放磊落なところがあったヴァーグナーとは、水と油ほども異なるものの考え方と性格の持ち主だったニーチェ。ふたりのあいだには必然的に行き違いが生まれ、完成間もないバイロイト祝祭劇場で観た楽劇『ニーベルングの指環』に深く失望したニーチェは崇拝にも等しかったヴァーグナーとその芸術と決別。それ以後、ニーチェは執拗なヴァーグナー批判を繰り広げるようになります。ニーチェのヴァーグナー批判ものの著作はいくつか知られていますが、なかには『ニーチェ対ヴァーグナー(1888)』なんていうそのまんまなタイトルの論文まであります。

そんなニーチェでしたが、1883年2月にヴァーグナーが死去したとき、その死を深く悲しんだと言われ、弟子のハインリヒ・ケーゼリッツ[作曲家ペーター・ガストの本名]宛ての手紙にこのように書いています。

「6年間も、もっとも尊敬する人物の敵でなければならなかったのは辛いことでした。……ほんらいのヴァーグナーについて言えば、わたしは彼の後継者になりたいと思っています」。

『ニーチェ対ヴァーグナー』を書き上げた翌年、ニーチェはトリノ市街の広場の一角で発狂し、10年あまりの精神病院暮らしののちに世を去りました。個人的には、ニーチェという人はおそらく人一倍、思いこみの激しい性格だったような気がします。その証拠にニーチェ自身、自分が批判している対象は現実のヴァーグナーその人ではないことを示唆してもいるのです。けっきょくありもしない「偶像としてのヴァーグナー」に向かってドン・キホーテよろしくひとりむなしく闘っていたような気がして、元祖『超人』思想の一哲学者の末路がますます哀れに感じるのは、筆者だけではないはず。

それでも彼の作曲した作品のひとつを聴くと、『ツァラトゥストラはこう語った(1885)』に出てくるような「超人」だの「永劫回帰」だのといった自身の思想を声高に叫ぶコワモテの哲学者が作ったとはとうてい思えないほど、甘美な抒情をたたえていることに驚かされます。

ニーチェ『大晦日の夜』[演奏:スヴェン・マイアー(ヴァイオリン)、ラウレッタ・アルトマン(ピアノ)]

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