【クラシックの裏口入門】オルタナ・クラシック(1)

2019/02/22
コラム(雑学)

この先、「クラシック音楽」を好んで聴く若者なんて、現れるのだろうか。

なんて、いきなり絶望的な話で始まって申し訳ないが、これだけいろんな音楽が日々生産され、氾濫し、片っ端から廃れていく中、あるいは同時代の若者の気持ちを代弁して共感を得るアーティストの音楽も溢れる中、まだあの18~19世紀ヨーロッパの王侯貴族や知識階級たちのための豪勢で浮世離れした古い古い音楽を、わざわざチョイスして聴く若者が現れるとは、どうしたって考えにくいのである。

普通に考えればもう、クラシック音楽は過去の遺物なのかもしれない。

しかし、あの当時のありとあらゆる楽器を使った、効率とコスト重視の現代では考えられないほど贅沢な、絢爛豪華で大規模・複雑な、最盛期のヨーロッパの英知と美を極めた豪華客船みたいな芸術音楽を、歴史の海に沈めてしまっても良いものだろうか。なんだかあまりにももったいない、とわたしは思う。

 

八方塞がり

昔なら、オーディオマニアというルートからクラシック音楽に入っていく人々も多かった。ダイナミックレンジが広く、すべて生楽器で、楽器の種類も多いクラシック音楽は、オーディオの質によってその再現力が大きく変化する楽しみがあった。

しかし今はスマホで音楽を聴く時代である。この時代にオーディオ機器に心酔し、クラシック音楽に没頭する若者が育っていく、というのも考えにくい。

クラシック音楽にとっては八方塞がりの、絶望的状況である。唯一残されているのは、コンサートホールで生演奏を聴く機会だ。幸い、今の時代は、コンサート会場に足を運ぶ人々が増えている、という話を聞く。CDが売れなくなって久しいが、生での音楽体験を楽しむ人々は、逆に増えているらしい。クラシックもそうなのかは知らないが。

しかし、たとえクラシックのコンサート会場が盛況だとしても、そこで演奏されるプログラムは有名曲に偏りがちである。そこではたぶん、ウェーベルンの交響曲や、ペンデレツキのレクイエムを聴くことができる機会は多くないだろう。知名度の低い曲名が並んだプログラムでは、チケットが売れないのだ。これももうひとつのクラシック音楽の問題である。

有名曲ばかりがコンサートで演奏され、CDも有名曲を繰り返し録音する。有名でないものはどんどん忘れられ、歴史の闇に葬られていく。

 

クラシックCDの稼ぎ頭

わたしは以前、外資系のCDショップやレンタルショップで働いていたことがある。クラシックのCDで人気が高かったのは、『どこかで聴いたクラシック』『CM・TVのクラシック』『クラシックベスト100』『はじめてのモーツァルト』『いちばんやさしいクラシック』といった、有名曲の一部分だけをコマ切れに収録したCDであった。こういうCDはよく売れる。クラシックCD売り場の稼ぎ頭である。

このようなCDを否定するつもりはないが、しかし、これを聴くほとんどの人は「ああ、この曲知ってる!」という体験がしたいか、普段はポップスを聴くけれども、寝る前だけクラシックをちょこっとだけ聴いてリラックスしたい、ということなのだろう、と想像する。そういうCDがどれだけ売れても、結局クラシック音楽ファンはちっとも増えていないからだ。

有名曲の「どこかで聴いたことがある」部分だけを細切れで収録したCDを好んで聴く、ということは、逆に言えば、「聴いたことのないクラシックの曲を、フルサイズでガッツリ聴くのはちょっとしんどい」と思っているのだろうということも想像できる。努力する必要も、考える必要もない
クラシックはしんどい。
そう思う気持ちはよくわかる。

「第3楽章」とか「弦楽四重奏曲」とか「平均律」とか、いちいちワードも大げさで、漢字が多くて、難しげである。

義務教育で覚えさせられた悪夢が蘇る。クラシック音楽なんて、古臭くて、仰々しくて、堅苦しくて、めんどくさくて、長くて、退屈なだけの音楽、そんなイメージ。いや、クラシックだってただの「音楽」にすぎないのに。

教養がないとわからないとか、楽譜が読めないとその良さがわからないというものでもない。45分の大曲も、ただ45分間経てば終わるだけのことである。45分の嵐のアルバムと変わらない。そこに読書をするような努力はいらない。考える必要もない。ただ時間が過ぎれば勝手に終わる。

なにかを考えなければならないこともないし、「わかる」とか「わからない」とか、音楽というのはそういうことではないだろう。

それは嵐でもセックス・ピストルズでもマーラーでも、同じである。その音楽を聴いているあいだに、どこか美しいとか面白いとかカッコいいとか、感じる部分があったら、気に入ったのかもしれない。次に聴くときはもっと感じる部分があるかもしれない。

クラシックなんてなにから聴いてもいいし、どう聴いてもいいのだ。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンという古典から入門しなければいけないわけでもない。ショパン、チャイコフスキー、ヴィヴァルディといったまずは王道から入ったほうがいい、ということでもない。「ボレロ」「パッヘルベルのカノン」「エリーゼのために」といった一度は耳にしたことのある小曲集から聴くべきだ、ということもない。

特にロックやポップス、ジャズといった他のジャンルをガッツリ聴いてきた音楽好きがクラシックへ興味がわき、ガッツリ聴くとしたら、「どこかで聴いたクラシック」や「いちばんやさしいクラシック」ではきっと物足りないだろう。今までガッツリ聴いてきた音楽と同等か、それを超えるぐらいの歯ごたえやインパクト、奥深さを感じられなければ、本当にクラシック音楽を好きになることはないだろう。

そんな方にわたしは、「オルタナ・クラシック」から入ってみることをお薦めしたい。

 

はじめてのクラシック

わたしがクラシックにハマったのも、もともとガッツリとロックにハマっていた20歳の頃だった。ローリング・ストーンズ、セックス・ピストルズ、ニルヴァーナ、オアシス、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどなど。猥雑で攻撃的で騒々しい、非日常の危険な香りがする、そんなロックンロールが好きだった。それが、ある本をきっかけにクラシック音楽にハマった。黒田恭一氏の『はじめてのクラシック』という本である。なぜその本を読みたいと思ったのかは忘れてしまったが、読書が好きで、いろいろなジャンルの本を読んでいた時期だった。この本は黒田氏の文章が素晴らしい、名著だった。その本でわたしは、クラシック音楽の面白さを知り、なにもクラシックだからって、難しく考える必要もない、ただの音楽だ、ということを知った。そして巻末に挙げられた黒田恭一氏によるお薦めCDをいくつか聴いてみて、わたしが最もハマったのは、ハンガリーの作曲家、バルトークだった。バルトークは輸入盤を集めて、ほぼ全作品を聴きまくった。

 

クラシックの裏口

わたしはショパンやチャイコフスキーやブラームス、ベートーヴェンといったメジャーどころを聴かずに、いきなりバルトークから入ってしまった。でも、それがよかった。バルトークから入り、さらにストラヴィンスキー、シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン、ショスタコーヴィチ、メシアン、武満徹、ペルト、クロノス・カルテットなどにハマっていった。ベートーヴェンやショパンやチャイコフスキーは後回しだった。

たぶんわたしは、うっかりお店の裏口から入ってしまったのかもしれない。

でもそのおかげでクラシック音楽が、単なるヨーロッパの王侯貴族のための古臭い音楽だけではなく、ロックと同じように、刺激的で、自由で、猥雑で、狂気の闇だってある、なんでもありの面白い音楽だと感じ、一生飽きることがなさそうな広大な音楽の森であると知り、わたしはクラシック音楽をガッツリと楽しむファンになったのだった。
後編へ続く。

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