第4回 スティーヴ・ライヒ(後編)【20世紀アメリカの作曲家インタビュー】

第4回スティーヴ・ライヒ(前編)の記事はこちら

 

オペラ、音楽劇、MTV

BD:オペラを書こうとしたことはあります?

SR:これまでのところ、ないかな。(笑) オペラの作曲家になることはないだろうね。一つか二つオペラを、あるいは音楽劇のようなものを書くことはあるかもしれないけど。

BD:何がちがうんでしょう?

SR:違いは、そうだな、ワーグナーとストラビンスキーの差のようなものだ。片方はオペラの作曲家、もう一方はオペラ『放蕩児のなりゆき』やバレエ『狐』、歌劇『マヴラ』を書いた作曲家。

BD:オペラと音楽劇のちがいは何なんですか?

SR:今の時代では、かなりちがうね。MTVは音楽劇スタイルだよ。テレビでいうと、ローリー・アンダーソン*がその中間のところでやってるね。

*ローリー・アンダーソン:アメリカのアーティスト、パフォーマー(1947 – )。アヴァンギャルド・ポップやマルチメディアのプロジェクトで知られる。

BD:MTVを見るんですか?

SR:ときどきね、見るよ! たしかに見てる、イエスだ。夜遅くに、ベッドにいく用意ができたら、つけてみる、ときどきね。あるいはホテルにいて、見れる場合にね。テレビの前に何時間もすわってることはないけど。部屋の壁紙みたいにして見てるティーンエイジャーがいるけど。身のまわりで何がはやってるかに興味があるんだよ。

嫌ってる人がいるのはわかるし、たしかに90%はそのとおり。だけどそれは一種、自分の身のまわりの生活の鼓動のようなものだと思う。現実に目をつぶりたくはない。そうやっていて得られるものはないと思うよ。すっかり拒否することはできるし、実際のところ、最高のもうけの種ばかりだろうね。でも自分の目で見てから拒否する方がずっといい、そういうものがあると聞いて、ゾッとさせられるに決まってると考えるよりね。まあ実際そうなるんだろうけど!(笑)

「音楽劇」はそれ以上のものだと思う。新たに出てきているスタイルのものすべてを取り入れられる表現形態で、それにオペラという名前は、合ってないように見える。わたしはモーツァルトからワーグナーに至るまで、個人的にオペラを楽しめない、それ以外のものもね。楽しめるオペラは『放蕩児のなりゆき』と『三文オペラ』、それに『青髭公の城』、モンテヴェルディのものを少し、そんなものかな。

BD:メト(メトロポリタン歌劇場)で連日かかってるようなものじゃないですね。

SR:ちがうね、メトで毎日かかってるようなものじゃない。そして歌唱スタイルも、『三文オペラ』がそのいい例だけど、意図的にベルカント唱法を避けたり、かわしたりしている。だから音楽劇の楽曲として考える最初のものは、その唱法になるだろうね。それは増幅されたスタイルのもので、議論に値しないような単純なことを扱うんじゃないかな。

具体的なプロジェクトがあるわけではないけど、もし誰かが5年前に「50分もかかるようなコーラスとオーケストラの曲を書こうとしてるんですか、それもアメリカの詩人を題材に?」と聞いてきたら、「なんだって、頭がおかいんじゃないのか?」と答えてただろうね。なのに、ほらここにあるわけだ(『砂漠の音楽』のこと)。(両者、笑) わたしの作品で、最も重要なものになるかもしれないし。除外することはないよ。今まだそういうプロジェクトがないだけさ。

 

アメリカには国のサポートがない

BD:依頼ではなくて自分のために曲を書くことはあるんですか?

SR:『八重奏曲』までの楽曲はすべてそうやって書いてきたよ。でも率直に言わせてもらえば、わたしのやってることは、自分のやりたいことは何かを形にすることなんだ。そしてどこかに行って、依頼してくれる人を見つけ出すんだよ。

BD:それがいい音楽を生むことになるんでしょうね。

SR:そうそう、そのとおり。それができてることに、とても感謝してるよ。それは自作のことを頭に、依頼を得ようと出かけていくと、「ここで演奏すればいいじゃないか」と言われた時期があったからなんだ。基本的にやりたいことに対して、報酬が支払われることは素晴らしいね。

BD:政府から芸術への助成金がもっとあるべきでしょうか?

SR:そうだね、これは直接的にラジオにも関係してくることだよ。ここの人間の収入は、ヨーロッパと比べて75%から80%くらいじゃないのかな。これはわたしのやってることに対して、彼らに洗練された感覚があるからでも、アメリカ人が粗野なためでもない。最近友だちのピーター・クランシーと話したんだけど、ケルンの西ドイツラジオの音楽番組の予算はどの年度でも、アメリカ政府のNEA(全米芸術基金)の予算よりかなり多いということ。レーガン大統領の前の何年間の、もっと基金が多かったときと比べてもね。どこからお金は来るのか。それは税金からだよ。

BD:ワォ!

SR:イギリスに住んでいる人間であれば、 年間一人当たり75ドルになると思う。もし結婚していれば、ラジオとテレビをもっている場合、一世帯につき150ドル払う。それを2億人あるいは1億世帯に掛けたら、莫大な金が公共のあるいは民間ラジオ局に落ちるんだ。こういう金でヨーロッパのラジオ局がやってることが可能になる。そしてその街にコンサートのある暮らしをもたらす。

『砂漠の音楽』はBBCプロムスで演奏されたんだけど、これはロンドンで毎夏開催される8週間にわたるクラシック音楽のコンサートなんだ。アルバート・ホールで、1ヶ月を超えるコンサートのプログラムをもつ。7000席の大きなホールだよ。BBC交響楽団はイギリスで最良のオーケストラの一つで、ブーレーズも指揮をしている。この企画はすべて税金によって賄われているんだ。

アメリカにはそれがない。トスカニーニの指揮によるNBC交響楽団がこれに近いかもしれない。もちろんこっちは民間企業のサポートによるものだったけど。これは音楽の実務家として気づいた、最も大きな違いだ。わたしのアンサンブルをカリフォルニアに連れていくより、ドイツのケルンに連れていく方が簡単だし、過去においてもそうだった。理由は向こうには我々の知るスポンサーがいるからだよ。これはシュトゥットガルトでもベルリンでもロンドンでもアムステルダムでも同じだ。これがNEA以外の支援が期待できないカリフォルニアでは無理なんだ。

NEAはいいんだけど、非常に質素だ。著名な民間企業を探すことになる、とてもアメリカ的な方法だね。そこからわたしは利益を得てはいるけれど、もっと西ヨーロッパから学ぶ必要があると思うよ。わたしはリアリストだから、近い将来それがアメリカで実現するとは思わない。現政権(レーガン)のもとでは絶対にね。

*NBC交響楽団:トスカニーニの指揮による演奏をラジオ放送する目的で編成されたオーケストラで、1937年から1954年まで存在した。

 

 

若い作曲家へのアドバイス

BD:若い作曲家があなたのところにやって来て、「作品を書きたい」と言ったら、どんな助言をしますか。

SR:何をつくるにしろ、とにかく続けなさいと言うね。途中でやめることなく、一つ作品をつくりあげること。一つを書き終えたら、新たな紙を出して次を書きはじめること。決まり文句のように聞こえるだろうけど、特に若い作曲家にとっては非常に重要で、それは作曲家というのは常に書きつづける必要があるからだ。

そしてある時点で気づく、そしてこう言う、「あー、あいつはあそこでやってるな、彼女はこっちだ。彼らは一連の作品をつくりあげている」とね。そのあとに、自分の作品の演奏にかかわるよう、彼らには言ってるよ。もし自分の作品を封筒に入れて、どこかの演奏集団に送るという受動的なやり方をした場合、そしていい返事が来ますようにと願って待ったとして、たいてい失望することになる。

その代わりに、自分の作品を自分で演奏するだけでなく、自分の友人たちに目を向けて作品を書くんだ。たいていの作曲家志望者は音楽学校にいる。わたしがジュリアードに行っていて起きた最良のことは、学校のカフェテリアに行って、弦楽カルテットをつくれることだった。そこにはたくさん音楽家がいる、これが音楽学校や音楽大学の本領だよ。気軽に学生同士でパフォーマンスが組める、学生にとって是非とも必要なことだね。

プロの音楽家になった場合も、同じことが言える。重要なのは作品が演奏されることなんだ、自分のつくったものを耳にして、書いたものにどんな問題があるか見つけるんだ。どんな音がしたか聞いて、それを正面から受けとめ、次の作品を書くことだ。こういうことがどんどん起こせれば、さらによくなるし、これこそがわたしが自分のアンサンブルでやってきたことだ。わたしがやったのは、いっしょに学んでいた仲間を集め、その仲間たちは、わたしのつくったものを演奏したいと思ってくれたというわけ。それ以外には誰もいなかった、そういうこと。

BD:そしてそれが演奏方法になった?

SR:それをつづけた。わたしは50年代後半から60年代にかけて育ったんだけど、それをやってどういう道が開けるのか、想像できるほど大人じゃなかったね。母親がこう言ってたのを覚えてるよ。「ポップソングを書いたらどうなの? その方がうまくいくんじゃないの」

BD:(笑)

SR:答えようがなかったね。適当な答えはもってなかった。自分のアンサンブルは商業的な可能性はゼロという、純粋に音楽への愛による行為だと思ってたから。1972年(36歳)になるまで、自分の音楽を演奏することで、部屋代を払ったり自分の生活を支えることができなかった。

BD:あなたのお母さんが「ポップソングを書いたら」と言ったことに驚いてるんです。「どこか行って、仕事を見つけてきなさい」ではなくてね。

SR:(笑)たしかに。彼女はポップシンガーだったんだよね。『Love is a simple thing』という曲を書いて歌ってたんだ。ブロードウェイの劇場に出ていたよ。30年代、40年代、50年代の「New Faces」と呼ばれたショーにね。だからあんな風に言ったわけで。父親の方は、あなたが示したような考えを持ってただろうし、実際言われたよ(両者、笑)

BD:あなたが作曲家でいてくれて、感謝しますよ。

SR:ああ、そう言ってくれて、ありがとう。

BD:作曲家の人たちと話すと、いつも大きな楽しみが得られます。特別なんです。

SR:嬉しいね、そんな風に思ってもらえて最高だよ。みんながそう感じるとは限らないんでね。(笑)

 

 

スティーブ・ライヒ『テヒリーム』が彼のディスコグラフィのベストかもしれない件

 

 

 

スティーヴ・ライヒ 二つのインタビュー
amazon
葉っぱの坑夫

インタビューの記事をもっと読む
関連タグ
関連記事