先日(9月21日)、世界に名だたるブザンソン国際若手指揮者コンクールの決勝が行われ、日本人女性指揮者の沖澤のどか氏がみごと優勝されました。このコンクールの日本人優勝者にはあの「世界のオザワ」として知らない人はいない小澤征爾氏をはじめ、沼尻竜典氏、下野竜也氏、山田和樹氏などの日本人指揮者が名を連ねており、まさに若手指揮者の花形コンクール。
しかし21世紀はクラシック音楽業界も大きく様変わりして、インターネットによるオンライン配信が当たり前となり、またSNSの普及に伴ってかつてのような「近寄りがたい」マエストロ、あるいは「巨匠」と崇拝されていた演奏家像は過去のものになりつつあります。まさにクラシック音楽の一大転換期にあると言っても過言ではないいま、これからのクラシック音楽界を担ってゆく日本人音楽家に求められる資質とは、どんなものなのでしょうか?
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沖澤のどか氏が指揮者を志した(ややビックリな)理由
沖澤のどか氏は青森県出身の32歳で、クラシック音楽界ではまだまだ若いアーティスト。母がピアノ、おじがチェロをたしなむという音楽一家で育ち、4歳でピアノを、9歳でチェロを、16歳でオーボエを始めたといいます。高校生の時に語学留学したオーストラリアでの体験から、音楽家の道を進むことを決意されたそうです。
そんな沖澤氏がなぜ指揮者を志したのか。その理由のひとつがご本人の弁によると、「かんたんだろうと思った」から(!)。たしかに楽器を人前で演奏するわけでないし、聴衆にお尻を向けて体操選手よろしく手や腕を振りたくっているだけ、のようにも見えます!
もっとも現実はそんなラクなものではなくて、100人、あるいはそれ以上からなる大所帯のオーケストラをたったひとりで統率しなければならない力業が要求される、きわめてハードな重労働。かつて朝比奈隆氏は90歳を前に渡米してシカゴ交響楽団を指揮したとき、「イスは必要か?」と訊かれ、やや憤然として「立っているのがオレの仕事!」と返答した話がありますが、とにかく並みの精神力と体力ではとてもじゃないがつとまらないのが指揮者という仕事。
ブザンソンで優勝した史上初の女性指揮者というのがこれまた日本人の松尾葉子氏であり、沖澤氏は日本の女性優勝者としてはふたり目になります。現在、ベルリンを拠点に活躍されている沖澤氏は今後について、オペラの指揮に取り組むのが目標、と抱負を語っています。
国際コンクールで大活躍する若き日本人音楽家たち
さてそのブザンソン国際若手指揮者コンクールですが、過去の日本人優勝者は今回の沖澤のどか氏を含めて10名にのぼります。近年、若い邦人演奏家の活躍はめざましく、たとえばピアノでは2018年の浜松国際ピアノコンクールで第2位に入賞した牛田智大氏(1999年生まれ)、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行氏(1988年生まれ)、そしてチャイコフスキー国際コンクールで第2位を獲得した藤田真央氏(1998年生まれ)などがおりますし、筆者の大好きなオルガンでは、ライプツィヒ第20回バッハ国際コンクールのオルガン部門で第1位と聴衆賞をダブル受賞した期待の星、冨田一樹氏(1988年生まれ)がいます。
1959年に日本人としてはじめてブザンソン国際若手指揮者コンクールに優勝した小澤征爾氏以来、日本人のクラシック音楽家の知名度は本場ヨーロッパ出身者と遜色ないほどに高まり、またバロックなどの古楽でも日本人の活躍がたいへん目立つようになりました。
かつて指揮者の岩城宏之氏は著書で日本の音楽教育を批判的に書いたことがありましたが、「欧米出身者にはない東洋人の視点」を武器にすれば、その昔、当時の音楽最先端の地・パリを訪れていたジョージ・ガーシュインに向かってモーリス・ラヴェルが言ったように、「あなたはすでに一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要なんてない」と言わしめることもじゅうぶん可能でしょう(し、当の岩城氏もまたおなじ著書で「日本人の《色》を前面に出すべし」といった趣旨の発言をしています)。
かつて読んだ記事に、若い日本人演奏家を教えるヨーロッパの先生が「もっと自分を出すように!」とアドバイスすると困惑してしまう人が多いと評した、という記述がありました。でもいまの若手演奏家にはそんな「画一性」は感じられず、むしろクラシック音楽の本場で対等に渡り合えるだけの「説得力」、つまり「演奏する音楽作品の解釈」に深みと幅をそなえたアーティストがかなり増えているという印象を個人的には持っています。
これはたとえば昔に比べて海外留学が格段にしやすくなったこと、インターネットに代表されるように遠方にいる者どうしが国境を越えて気軽にコミュニケーションをとれるようになったこととも無関係ではないはずです。
21世紀はクラシック音楽家受難の時代?!
と、ここまで書いておいて冷や水を浴びせるわけではないですが、いまやクラシック音楽の世界も激動の時代。ただ黙ってお客さんが来るのを待っていては生き残れなくなっています。その好例が、音楽CD販売の凋落。筆者自身、気がつけば以前ほど物理的なカタチのアルバムというものをほとんど買わなくなってしまいました。これはおそらくみなさんも似たようなものだと察します。21世紀のいま、音楽流通の最前線は音楽CDが山積みになった倉庫ではなく、インターネット上のオンデマンド配信やストリーミング配信が中心。クラシック音楽も例外ではありません。
そして決定的なのが、SNSの爆発的な普及でしょう。クラシック音楽家もポップスのミュージシャンもおしなべてそうですが、彼らはもはや昔のような手の届かない、どこかよその世界の住人というわけではなく、その気になればツイートというかたちでやりとりできたりするきわめて身近な存在になりつつあります。
またいまのクラシック音楽愛好家の情報の入手方法も、かつての音楽雑誌やラジオ番組からSNSを中心としたネットに取って代わりつつある。つまり以前の常識に捉われていてはいずれお客さんから見向きもされなくなる、そんなキビシイ時代になりつつあると感じています。
音楽評論家の吉田秀和氏がNHKホールで初来日公演を行ったピアノの巨匠ウラディミール・ホロヴィッツの演奏を「ひびの入った骨董」と酷評したのは有名ですが、いまはだれもが「にわか音楽評論家」になれる時代。もはやそこには「巨匠」と呼ばれ、雲の上の存在として崇拝されるような音楽家は存在しません。従来の殻を破壊するような大胆な試みをどんどん打ち出してゆかないと、そのうちほんとうに「コンサートは死んだ」と、グレン・グールドが警告したことが現実になるかもしれません。
「クラシカルDJ」に見る、これからのクラシック音楽家のあり方
ではどうしろと言うのか、と訊かれたら、筆者なら「ジャンルを超越せよ」と答えます。つまりクロスオーヴァー。たとえば数か月ほど前に、クラシカルDJのAoi Mizuno(水野蒼生)氏によるLFJ会場でのパフォーマンスがテレビで紹介されたことがありました。ベートーヴェンやラヴェルなどの名曲をリミックスし、それに合わせてダンサーたちが縦横無尽に舞い踊るさまを見て、とても新鮮な感動を覚えたものです。
Mizuno氏は昨年、過去のクラシック音源をミックスして1枚のアルバムに仕上げるという前代未聞の試みをしており、その批評記事に「換骨奪胎」という表現が使われていました。いま日本人音楽家に求められているのはこの「換骨奪胎」と、さらにその先を目指すチャレンジ精神ではないかと思われます。まるで畑違いのアーティストとコラボ、というのもおおいにけっこう。
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英語の比較的新しい表現として、”big hairy audacious goal(BHAG)” という言い回しがあります。意味は「多大な困難を伴うとてつもない目標」。若い音楽家の方には失敗を恐れず、いままでだれも試みたことのない大胆なアプローチを自身の活動に取り入れれば、まったく思いもよらなかったところで新しいトビラがつぎつぎと開いてゆくのではないでしょうか。