音楽映画×ヒューマンドラマの可能性

いわゆる「音楽映画」と呼ばれるものは、伝記的な(ドキュメンタリー的な)作品になることが多い。かの有名なジャン=リュック・ゴダールがロックバンドのローリング・ストーンズを扱った『ワン・プラス・ワン』であったり、ザ・バンドの『ラスト・ワルツ』であったり、など。クラシック音楽で言うと戦前の映画だがアベル・ガンス監督の『楽聖ベートーヴェン』などが思い浮かぶ。あとはクラシック音楽ファンなら誰しもが観ているであろう『アート・オブ・コンダクティング』があるが、あれは完全にドキュメンタリーで、「映画」なのかと聞かれると、若干微妙な線ではある。
 

 
さて、ヒューマンドラマは、多くの場合群像劇で、「人間」を描くことに注力している作品のため、「音楽映画×ヒューマンドラマ」は音楽を描きたいのか人間を描きたいのかがはっきりしていないと作品として成り立たせることが難しい。
2012年に公開され、ヤーロン・ジルバーマンが手掛けた『25年目の弦楽四重奏』(原題:A Late Quartet)は、音楽映画とヒューマンドラマのバランス感覚が奇跡的に成り立っている映画である。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131のリハーサルの最中で勃発する様々な人間関係の齟齬が、ベートーヴェンの音楽とときに絡み合いながら、人と音楽の関係性について深く掘り下げる作品となっている。この記事では、物語の筋を追っていくことはしないが、この作品の見どころと「作品131」が舞台上で演奏されるラストシーンについて解説していく。

困難への「立ち向かえなさ」

 
架空の弦楽四重奏団である「フーガ四重奏団」は、ベートーヴェンの14番に向けてリハーサルをしていた。結成25周年を迎えるにあたって、このベートーヴェンの大曲に挑戦するのはカルテットにとっても重要なことだった。しかし、チェロ担当でカルテットのリーダーであるピーター(クリストファー・ウォーケン)がパーキンソン病になり、演奏活動の続行が困難に。ピーターはベートーヴェンの14番の演奏会を最後にカルテットからの引退を表明する……というのが、この映画の冒頭で起こる最初の困難である。ピーターの病気をきっかけに、カルテットは徐々に狂い出していく。ピーターは、ベートーヴェンの14番を演奏すると決めたとき、次のような台詞を述べる。

「この曲は7楽章全曲を通して、アタッカ(楽章間の休みなく演奏すること)で演奏される。当然調弦は狂ってくる。調弦が狂っても最後まで演奏するか、途中でやめるかだ」

このピーターの台詞が、『25年目の弦楽四重奏』全体を通してのテーマになっている。ということはつまり、「ベートーヴェンの14番」という作品が、この映画の象徴となっているということだ。のみならず、これは人間の生きる上でのスタンスへの問いでもある。どこかで、人生の「調弦」が狂ってしまうかもしれない。狂ってしまったから「やめる」のか、それでも最後まで生き抜くのか。クリストファー・ウォーケンの重厚な佇まいは、そのような深読みを観客に喚起させる。
 

 
ベートーヴェンの音楽の精神性についてよく「困難を乗り越えて希望へ」という紋切型の文句が使われることがある。交響曲第5番なんかはその好例だろう。しかし、この映画の登場人物は、困難を乗り越えられない。ベートーヴェンを演奏するにも関わらず、ピーター以外(ピーターも自分の病気について諦めてしまっているが、少なくとも彼のみは本人の中で問題が完結している)は人間関係の泥沼にハマって身動きが取れなくなっている。冷酷な完璧主義者だったはずの第1ヴァイオリン、ダニエル(マーク・イヴァニール)は同じカルテットの夫婦の娘と恋愛関係になってしまい、その夫婦である第2ヴァイオリンのロバート(フィリップ・シーモア・ホフマン)とヴィオラのジュリエット(キャサリン・キーナー)は浮気を巡って深みにはまってゆく。途中のはちゃめちゃ具合は、観ている人も「これはどう収拾がつくんだ……?」と思ってしまうこと請け合いだし、事実劇中のヒューマンドラマの多くが観客の納得の行く収拾のつき方でエンディングを迎える。では、フーガ四重奏団のもつれにもつれた人間関係の困難は、果たしてケリがつくのだろうか?

第2ヴァイオリンの難しさ――ロバートの葛藤

一応この作品の主人公はピーターだが、実質的な主人公(というか中心人物)は惜しくも数年前急死した名優・フィリップ・シーモア・ホフマン演じるロバートである。彼の矛盾しておりエゴイスティックで、でもどこか憎めないキャラクターが、この作品の醍醐味と言ってもいいだろう。
 
ロバートについて語る前に、弦楽四重奏における第2ヴァイオリンという役割の持つ難しさについて簡単に触れておきたい。そもそも、弦楽四重奏は弦楽器が4本集まって演奏されるジャンルなので、各声部の聴き分けは慣れている人でないとやや難しい。その中でも目立つのは第1ヴァイオリンとチェロで、第1ヴァイオリンは主旋律や難しいパッセージを担当するので、高いヴィルトゥオジティを要求される。特にベートーヴェン以降の弦楽四重奏では複雑な声部の絡み合いを先導するので、まずは第1ヴァイオリンで引き込めなければ話にならない(もっと時代が下ってバルトークやショスタコーヴィチの作品になればなおさらである)。チェロはカルテット全体の音色を低音で決定するというこれまた重要な役割で、第1ヴァイオリンのように目立つ存在ではないがチェロによってアンサンブルの響きが決定すると言っても過言ではない。で、第2ヴァイオリンとヴィオラは内声部と呼ばれる役割を果たすのだが、ヴィオラはヴァイオリンより楽器が大きく内声部を豊かに響かせ、ベートーヴェンの16番はヴィオラで始まったりもするのだが、第2ヴァイオリンは第1ヴァイオリンと楽器が同じ上内声部を担当するため必要不可欠なのに非常に目立ちにくい。対旋律やリズムを担当することが多いのだが、ロックバンドで言えばリードギターに対するリズムギターに相当すると言えばクラシック音楽リスナー以外にも分かりやすいだろうか。
 

 
ロバートに話を戻すと、ピーターのパーキンソン病でチェロのメンバーを交代するという話が出たとき、ロバートは「ダニエルと第1と第2を曲ごとに交代してやりたい」と言い出すのである。第2ヴァイオリニストの第1ヴァイオリンに対して持っているコンプレックスをここまで赤裸々に描いた作品は恐らくないだろう。そのくせ妻でありヴィオラ奏者であるジュリエットに「伴奏」と言われると「第2ヴァイオリンは伴奏じゃない」と激怒し、その勢いでバーで知り合った女性と一夜を共にしてしまう。案の定浮気がジュリエットにバレ、必死に言い訳をするもジュリエットは相手にしてくれず……。またこれはダニエルがロバートとジュリエットの娘・アレクサンドラ(イモージェン・プーツ)と関係を持ったのが第一義的に悪いのだが、ピーターの家でリハーサル中にそれが発覚した際はダニエルを殴り飛ばして家具を割ったりしていた。というか、ピーターのパーキンソン病が発覚したのをチャンスだと思い、第1と第2を交換しようなどとロバートが言わなければフーガ四重奏団の平和は保たれていたはずなのである。他にもダニエルとの会話で嫉妬を吐き出すシーンなど、ロバートの見どころは多い。矛盾していて、目立ちたがり、エゴイスティックで場をかき乱す、しかしなかなかどうして憎めない奴、それがロバートである。フィリップ・シーモア・ホフマンの演技はクリストファー・ウォーケンを差し置いて本作のMVPである。

すべてうまくはいかなくても――解決するのではなく、受け入れること

 
ロバートのダニエルへの嫉妬、ダニエルのアレクサンドラとの関係、ロバートとジュリエットの決裂……実は、この作品中でリハーサルが上手く行くシーンは一度もない。ピーターのパーキンソン病に始まり、カルテット内の様々な問題はことごとく放置される。何も解決していないまま、「作品131」の本番を迎える。この映画は、冒頭とラストの演奏シーンがつながるようになっている。果たして、フーガ四重奏団は「作品131」を、「調弦が狂っても」最後まで演奏することができるのだろうか。
演奏は第6楽章までつつがなく進む。次第にピーターの運指が怪しくなってくる。このシーンのクリストファー・ウォーケンの迫真の顔面演技は見どころだろう。焦り、諦め、様々な感情がクリストファー・ウォーケンの顔を通して伝わってくる。第7楽章に入るところで、ピーターは演奏をやめる。カルテットのメンバーは顔を見合わせ、固唾を飲んでピーターを見守る。ピーターはチェロを置き、聴衆に対して私はここまでだ、今までありがとうと感謝の念を述べ、後任のチェリストを招き入れる。ダニエルのアナウンスで、演奏再開の旨を告げ、演奏が始まって映画が終わる。
 

 
この映画は、「困難を乗り越えて希望へ」というベートーヴェンの音楽に対する決まり文句を映画化したものではない。「音楽があれば困難が乗り越えられる」という映画でもない。赤の他人同士が長い間一緒にいるということは、本当に大変なことで、取り返しのつかないことをしてしまう可能性もある。また、音楽によって不治の病が治ったりするわけでもない。要するに、人間が生きるということは、取り返しのつかないことの連続なのだ。ただ、それでも。音楽という福音を捨ててはいけない。すべてうまくはいかなくても、音楽が苦境を解決するのではなく、受け入れさせてくれることはある。本作のラストシーンでピーターがステージを降り、新しいチェリストと共にカルテットが「作品131」を最後まで演奏するとき、彼らは「調弦が狂って」も、やり遂げたのだ。『25年目の弦楽四重奏』は、音楽映画、ヒューマンドラマ両方の傑作であると断言したい。