「通俗名曲」と映画の危険性

映画やドラマを観ていて、「あ、この曲知ってる」という場面に出くわすことは少なくない。ポップスでも、クラシック音楽でもよくあることだ。知っている音楽が流れ出すと、観客の意識はBGMに持っていかれる。映画内で使われる音楽は観客をより映画に没入させる効果として用いられるが、曲を聴くことに集中されては映画としては困った事態だ。だからこそ、「オリジナルサウンドトラック」というものがある。無論、そのシーンをより盛り上げたり、観客の意識を集中させるために既存の曲が効果的に用いられたりすることもあるが、上手く行っている例というのはそんなに多くない。
中でも、クラシック音楽の「通俗名曲」を使うことは、かなりリスクが大きい。「誰でも知っている」からだ。例えば、恋人たちのラブシーンを描いているところでいきなりバッハの「G線上のアリア」が流れ出したら、かなり陳腐である。使いどころを間違えると、映画自体が台無しになってしまう可能性すらある。誰でも知っているからこそ、音楽と映画が乖離する可能性をBGMとしての「通俗名曲」は孕んでいる。

効果的な例と「通俗名曲」に挑戦した映画、『カノン』

逆に言えば、監督の腕の見せ所、と言ってもいいかもしれない。例えば、通俗名曲とは決して言えないかもしれないが、スタンリー・キューブリックは電子音楽にアレンジしたパーセルの「メアリー女王のための葬送行進曲」をいきなり冒頭で使う『時計じかけのオレンジ』など、クラシック音楽の使い方に非常に長けていた。通俗名曲という線で言えば、レオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』におけるヨハン・シュトラウス二世の「美しく青きドナウ」が好例だろう。優れた監督は、クラシック音楽の有名な曲であっても効果的に使うことができることの証明になっている。
さて、通俗名曲の「王様」といえばやはりこの曲、というクラシック音楽を使い、見事なまでのマリアージュを成し遂げ、使われている曲がそのまま邦題にまでなってしまった映画がある。フランスの映画監督、ギャスパー・ノエによる『カノン』(1998)だ。文字通り、パッヘルベルの「カノン ニ長調」が用いられる。あまりにも有名過ぎる曲なだけに、使い方を少しでもミスすれば映画自体が台無しになってしまうかもしれない。しかし、『カノン』の「カノン」は、まさにこうでしかあり得ないという仕方で鳴り響く。それは、BGMという域を越えて、フレッシュな福音としてまさにその場に音楽が聞こえてくるかのようだ。本記事では、物語の筋に触れつつ、映画の「音」という観点から『カノン』とBGMとしてのクラシック音楽を考えたい。

https://youtu.be/qdXso79Mhjk

「音楽」がない!――主人公の抗いようのない「どん底」

『カノン』の主人公(フィリップ・ナオン)が、この映画の中で名前を呼ばれることはない。元馬肉屋で、娘のシンシアにちょっかいを出してきた男がシンシアを強姦したと思い込んで殺傷し投獄されたのち、職もなくホテルからホテルを渡り歩く中年男性だ。この映画の特徴として、ほとんどが主人公のモノローグによって埋め尽くされていることが挙げられる。主人公はひっきりなしに自らの脳内を音声化する。その語りは怨嗟、後悔、恨み、ことごとくがネガティブなものだ。しかもホテルの宿泊料をちょろまかすなどは序の口で、物語冒頭で再婚相手が身ごもっているにも関わらず「働け」と妻に言われたことに腹を立てて執拗に腹を殴って中絶させたり、バーで隣にいた移民の若者に差別的発言をしたりなど、主人公の悪行は枚挙に暇がない。現代風に言えば、「クズ」なのである。彼は延々と再婚相手や移民の悪口をモノローグで語り続ける。
これが「音」とどう関連しているのか?まず、モノローグが映画の大半を占めていることから、BGMの入り込む余地がなくなり、結果としてパッヘルベルの「カノン」が流れ出す最終部に至るまでBGMらしいBGMは一切使用されない。代わりに、クロースアップやカットが切り返されるべき場面で豪快にキャメラが回転し、銃声のようなSEがキャメラの動きと同期して鳴り渡る。初見だとかなり驚く斬新な演出だが、BGMがない代わりにこのSEによって映画がリズム感を失うことはない。音楽がない、そして銃声が絶えず響き渡る(ちなみに、主人公は再婚相手の家から盗んだ、弾が二発入っている銃を所持しており、主人公が憎んでいる人々に対して自分で発する「バーン!」という擬音とこのショットの変化に伴う銃声のような音は似ており、この象徴性は結末において重要な意味を持つ)『カノン』の結末10分を除いた80分間は、観る者の心を揺さぶってゆく。

彼は何を追い求めていたのか――歪んだ自己愛と憎しみ

最終場面の「カノン」に至るために、この映画自体が何故観る者にショッキングな印象を与えるのかを主人公の存在が観客に及ぼす影響と物語の筋から考えてみたい。上で「この映画は観る者の心を揺さぶる」と述べたが、主人公のモノローグがほとんどを占めるこの映画は、そのまま観る者のモノローグでもある。「いや違う、僕/私はこの主人公のようなクズではない」と言う善良な人々もいるかもしれない。それに対して私はこう問いかける。「あなたは、本当に、この主人公のように利己的で、暴力的で、自らの欲望を制御できず、他人へのルサンチマンで生きていて、そのくせ何もできないような、どうしようもない自らの醜さに本心から向き合ったことがあるのか?」と。そう、この映画を観る観客は、『カノン』を通じて自らの弱さや醜さと対峙せざるを得なくなるのだ。エンターテイメントとして、娯楽として映画を観る観客は、映画によって自らの「どうしようもない」内面を突きつけられることなど望んではいない。監督のギャスパー・ノエは、『カノン』で人間が持っているはずの汚れた内面を残酷に暴き出す。その酷薄な描写は、どこか誰もが持っている醜さに同調するのである。

Canon in D (Pachelbel’s Canon) – Cello & Piano

主人公の特徴として、「歪んだ自己愛」が挙げられる。映画館でポルノ映画を観ながら、自らのことを「萎びた役に立たない男性器」だと言ったかと思えば、極右の国粋主義者である彼は移民を徹底的に嫌い、「純粋なフランス人」としてのプライドを捨てきれずにいる。その矛盾した彼の心情はない交ぜになり、他者への憎しみへと転化される。自分に声をかけてきて一夜を共にした情婦に対してモノローグで悪罵し、再婚相手には「この悪臭には耐えきれない」とモノローグでひとりごちたりする。しかし、このような醜さを、誰が一切持っていないと断言できるだろうか?主人公のモノローグは、ある種不気味なまでに観客の醜さを逆照射する。
だが、しかし、だ。そんな「どん底」の主人公は、全てに絶望していてもおかしくはないが、投獄されて以降施設で過ごしていた娘・シンシアへの愛情が、彼を生かしていた。しかも、恋人に恋するかのように、娘を愛していた。性的な欲望さえもが、主人公なりの娘への愛情だった。物語の終盤、移民との喧嘩や再婚相手からの逃亡の生活に倦み果てた主人公は、シンシアのことを思い出す。シンシアに会いに行かなければ。シンシアに会うことだけが、俺に残された最後の希望だ。そしてシンシアを殺して俺も死ぬ。それでこの人生は報われる。そういった彼の歪んだ娘への愛情が、彼を最終場面に向けて突き動かす。シンシアのいる施設に向かい、とうとう彼はシンシアとの邂逅を果たす。そして……。

そして福音は鳴り響く――パッヘルベルの「カノン」

シンシアを自らの住むホテルに連れ込み、しばらく二人は対峙している。主人公のモノローグは止むことがない。これからシンシアと性交して、持っている銃で撃ち殺す。要約すればそれだけのことなのだが、主人公は「本当に自分はシンシアを殺すのか?」と自問し続ける。そして、「福音」を観客が耳にするためには、監督のノエが用意した「警告」の画面をやり過ごさなければならない。「劇場を出るならあと30秒で」というテロップの画面が映し出され、30秒のカウントダウン。その画面が終わると、主人公の妄想でシンシアと性交した後、銃で彼女を撃ち殺すシーンになる。この後のシーンの予示ではあるものの、銃殺シーンのリアリティは観る人によってはかなりショッキングだろう。喉を撃ち抜かれたシンシアが倒れ込み、撃ち込んだ痕からは血が噴き出し、呼吸は断続的になる。主人公は半裸のままベッドに倒れ込み、「やってしまった」ことの後悔と取り返しのつかなさに苛まれる。彼は自分の喉元を銃で撃ち抜く……。

……だが、彼にはシンシアを抱くことも殺すこともできなかった。最後の良心の呵責?殺人犯になりたくなかった?そのいずれでもない。歪んだ自己愛を持ち、利己的で、暴力的な、「クズ」の彼が最後に持っていたもの、それは愛だった。少し歪んではいるものの、娘を一人の女として心から愛しているという、主人公が最後に辿り着いた、どうしようもない人間としての極点の美しさ。主人公は、シンシアを抱きしめて嗚咽する。そのとき鳴り響くのが、パッヘルベルの「カノン」なのだ。BGMがなく、絶えず銃声が鳴り響く暴力的な「音」に支配されていたこの映画は、結末においてクラシック音楽史上最も有名なニ長調が、登場人物には聞こえていないはずの福音として奏でられる。ルサンチマン、憎悪、暴力、人間の醜いところを見せつけられた観客は、追い詰められ、ぐったりしてしまうはずだ。しかし、シンシアを抱き締めて、父として、男として娘を愛して生きていくことを決めた主人公のもとに降り注ぐ音楽は、まさに福音でなければならず、まさに「カノン ニ長調」でなければならないのだ。そこに至って、観客はカタルシスを得る。「通俗名曲」、誰でも知っているクラシック音楽がその場面で鳴り響くことによって、人間に残された最後の美しさを映画と音楽のマリアージュによって信じることができるのだ。『カノン』は、その巧みな音と音楽の対比によって、クラシック音楽を最も効果的に用いた映画の一つの到達点と言えるだろう。

[まとめ] 音楽と映画の共犯関係

ちなみに、『カノン』はフランス映画で、原題は『Seul Contre Tous』である。「ただ一人で全てに抗う」というのが大体の意味だ。つまり、原題と邦題でまるきり違うタイトルなのだ。しかし、この邦題は『カノン』という映画を象徴的に表している。つまり、パッヘルベルの「カノン」はこの映画において「クズ」の主人公が辿り着く最後の答え、「愛すること」の象徴として用いられているということである。BGMというといかにも添え物的だが、優れた映画において音楽は映画の添え物では決してない。最初に書いた通り、より効果的に見せるという効果も勿論ある。しかし、それ以上に映画は音楽と共犯関係を結んでいる。どちらかがちぐはぐであればどちらも色あせるし、効果的であれば(効果的であるということは)映画と音楽の双方がより美しく見える、聴こえるのである。『カノン』は直接的にクラシック音楽を扱った映画ではないが、映画と音楽のマリアージュ/共犯関係を示す、美しい作品である。