「今はバイエルやらないんですよね。」
という話に衝撃を受けたのは、10年ほど前のこと。

幼稚園に通うお子さんにピアノを習わせているお母さんから聞いた話でした。

“バイエル”とは、その昔、ピアノを習い始めると必ずと言っていいほど使われていた導入教本です。かつて、その“バイエル”がスタンダードだった時代に、私もピアノを習っていました。

しかし、いつの間にか“バイエル”はあまり使われなくなり、その存在すら知らない世代が増えてきています。

なぜ“バイエル”は使われなくなったのか?今はどのようにピアノを習うのか?現代のピアノのおけいこについて改めて考えていこうと思います。

ピアノ初心者の登竜門 “バイエル”

ピアノの入門テキストとして使用されていた“バイエル”は、実はドイツの作曲家の名前。Ferdinand Beyer(フェルディナント・バイエル)がその人物です。

バイエルは1803年生まれ。作曲家である他に、ピアニストでもあり、ピアノ教師でもありました。

彼が作曲した、ピアノ奏法を学ぶための練習曲をまとめたものが、いわゆるテキストとしての“バイエル”で、1850年頃に初めて出版されたと言われています。

“教本バイエル”が日本に伝わったのは、最初の出版から30年ほど経った明治時代(1880年)のこと。以来、長きにわたり、ピアノ初心者の必修テキストとして定着していました。

“バイエル”を修了しなければ、次のテキストに進めない…、だからみんなこぞって“バイエル”を頑張りました。

“バイエル”を使い続けているのは日本だけ!?

歴史ある“バイエル”ですが、作曲家バイエルの本国ドイツではほとんど使われておらず、世界を見ても、使い続けているのは日本くらいだと言われています。

“バイエル”が出版された頃のヨーロッパは、シューベルト、メンデルスゾーン、ショパンなどの作曲家を代表とする“ロマン派”音楽が最盛期を迎えていた時代。

作曲家バイエルもロマン派の影響を受けたに違いありませんが、“バイエル”にはロマン派以前の“古典派”の要素が多く見られるます。

モーツァルトやベートーベンで有名な古典派音楽は、貴族や教会を中心としたバロック時代の複雑な形式と比べ、統一感のある整然とした単純な音楽形態。

市民の間にも広まったことから、親しみやすい初心者向けの曲調であり、それが学習にも適していると考えられたのでしょう。

しかし、それはロマン派最盛期の話。古典派が色濃く残る“バイエル”が世界のスタンダードとならなかったのも当然と言えば当然です。

古典的ゆえに、学習に偏りが生じる“バイエル”

“バイエル”は右・左、片手ずつの練習曲から始まり、次第に両手を使った練習曲へと移っていくというスタイル。

100を超える練習課題がありますが、全体を通して単純なメロディー、決まった型の伴奏が多く、使用する鍵盤の音域もさほど広くありません。

また、前半はト音記号とハ長調の課題が続くため、白鍵のみを使用して、狭い音域で繰り返し同じ調子の曲を弾くという期間が必然的に長くなります。

このことにより、学習者が途中で登場するヘ音記号や黒鍵の使用を難しく感じたり、短調の曲に馴染めなかったり、広い音域の曲に対応できなかったりするとして、ピアノ教育専門家らの間で“バイエル”の欠点を指摘する声が上がるようになりました。

こうした学習内容の偏り批判から、“バイエル”の使用が減少していったと考えられます。

確かに、単純明快なものは初心者にとって取り組みやすいものであり、導入時には適したものかもしれません。

しかし、初級、中級、上級と過程を進み、さまざまな曲を弾くようになることを考えれば、最初からヘ音記号や黒鍵に慣れておいた方が、後々それらが登場したときに、抵抗なく受け入れられるのではないでしょうか。

つまらないことはやらない現代っ子

今は私たちを取り巻く環境も、人々の価値観も以前とは異なります。ピアノ教室の数はたくさんありますし、ピアノ以外の習い事もバラエティに富んでいます。

選択肢が無数にある中で、こっちの教室がダメならあっちの教室に移る、ピアノに飽きたらバイオリンに転向する、といったようなことが抵抗なくできるようになりました。

また、現代の子どもたちは忍耐力がなく、おもしろいこと・楽しいことしかやりません。ゲームやテレビに夢中になるのがいい例です。

つまらないと、すぐに「やーめた」となりかねないのです。したがって、古典的な“バイエル”を「つまらない」と感じ、ピアノをやめてしまう子どもも少なからずいたはずです。

こうした時代の趨勢も、“バイエル”離れを加速させた要因の一つなのかもしれません。

順番におぼえることが、必ずしも得策ではない

それでは、今のピアノ教室ではどんな教え方をしているのでしょうか。

以前、ピアノを習うと言えば、まずはハ長調・ト音記号の「ドレミファソラシド」を順に弾くことから始まりましたが、今は必ずしも「ド」が始まりではありません。

私の知っている教室では、幼児に最初に教えていたのは「レ」の音。その前段階として、黒鍵を先に触らせて2鍵・3鍵のまとまりを認識させ、黒鍵2鍵の間にある白鍵が「レ」という教え方をしています。

ハ長調の「ド」から習い始めた人にとっては、それまでの常識が覆される驚きの内容です。

しかし、今は他の分野に関しても同様の傾向があり、たとえば、子どもが習う“ひらがな”においても、先頭の「あ」から学習することが必ずしも常識というわけではありません。

教育研究で有名な企業が出版しているひらがな学習のドリルを見ると、直線をなぞることから始まり、次に波形やコイル状の曲線をなぞり、いよいよひらがなに入ると、「し」や「つ」など、一筆で簡単に書ける文字からスタートするのです。

確かに、文字の学習をし始めたばかりの子どもが「あ」を書くのは難しく、たとえ読めたとしても、書くとなれば、書き順にも注意しなければならず、ハードルが高い。

ひらがな学習のゴールが、最終的に読み書きできるようになることだとすれば、「あ」から順番におぼえることは、必ずしも重要ではないことがわかりますよね。

ピアノもまた同様に、曲を弾くことが目的であるならば、「ド」が始まりでなくてもよいというわけなのでしょう。


“バイエル”には欠点があり、使われなくなったと述べてきましたが、反面、メリットを見直して再び使用するようになった、といった指導者もいます。

“バイエル”は単独で使用することによって学習に偏りが出てしまうという欠点もありますが、他の教本を併用することで、それらをカバーすることが十分可能です。

幸いピアノの導入教本は種類が豊富にありますから、使い方次第では依然として優れた教本には違いないのかもしれません。

教室利用に限らず、独学でピアノを学習する人たちにも広く使われています。

一方、こちらは世界の他の国々でも使用されている“バーナム・ピアノテクニック。