【宮廷作曲家のお仕事】売れっ子は誰?〜音楽家の働き方

2019/12/04
コラム(雑学)

音楽で食べていく。プロの音楽家として収入を得るため、働き方を模索するのは現代だけの話ではありません。後世に名を残した大作曲家たちにも、生活やお金に関する悩みは付きまとっていました。
今日、そして未来において演奏され続けるであろう名曲を残した音楽家も、その才能だけで自由に生きることは難しかったようです。

作曲の印税や著作権という概念も浸透していなかった時代、宮廷に音楽家として就職することは、安定した報酬を得るための生活手段でした。

 

宮廷音楽とは

ヨーロッパでは、古くから教会への捧げものとして音楽が存在しました。教会に仕える作曲家は、聖書をモチーフに宗教的な曲を作り演奏します。例えば、J.Sバッハはライプツィヒ・聖トーマス教会の音楽監督時代、毎週のように教会カンタータを作曲しました。

中世以降、特に王権の強くなったバロックから古典派音楽の時代にかけて、教会だけでなく宮廷が音楽の発展に欠かせない重要な場となっていました。そこに雇われた作曲家たちは、自身のこだわりよりも、雇用主である王侯貴族の要望に合わせた世俗的な音楽を作る日々を送ります。例えば、バッハと同年のG.Fヘンデルは、イギリス王の舟遊びのために「水上の音楽」を作ったという逸話があります。

宮廷での冠婚葬祭、晩餐でのBGM的音楽など、そのイベントごとに作られた曲は機会音楽と呼ばれ、場を盛り上げる役割を担いました。

 

宮廷作曲家のお仕事

宮廷音楽家のトップである宮廷楽長は、楽団をまとめるだけでなく、宮廷の依頼で作った曲を自らの指揮により披露しました。そのほか、楽団員の管理や事務的な業務までこなし多忙を極めたとされます。

バロックや古典派の時代は、まだ音楽家の地位はそれほど高くなかったようです。芸術家というより教会や宮廷に雇われる召使いのような存在でしたが、定職に就くことで、生活は保証されていたのです。機会音楽として、その場限りの曲を作ることになるため、必然的に多作となり職人的な能力を求められました。

 

トップクラス宮廷作曲家の生きた道

ほぼ終身雇用?息の長い活躍をしたハイドン
オーストリアのローラウという村に生まれ、交響曲の父と呼ばれるフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809年)は、その長い音楽人生のほとんどを宮廷楽長の職に従事し、たくさんの作品を生み出すことにより名声を手に入れました。しかし、エリート風の肖像画と明朗な曲風からはイメージできないほど、若い頃は苦労続きだったようです。音楽の道を諦めず地道に努力を続けた結果、大貴族エステルハージ家に副楽長(のちに楽長)として就職。そして約30年間勤め上げ、ウィーン古典派音楽を代表する作曲家の一人となりました。

また、作曲だけでなく、楽長職の立場から、歌手との契約手続きなど事務的な仕事も自ら行ったということです。大器晩成型で、ゆっくりですが堅実な音楽人生を送りました。

ホスピタリティ溢れる教育家サリエリ
映画「アマデウス」での印象が強すぎて、モーツァルトの殺害を疑われてしまったイタリア生まれの作曲家アントニオ・サリエリ(1750〜1825年)。フィクションとわかっていてもネガティヴなイメージが付きまとってしまうのは大変気の毒ですが、それくらいあの映画は面白かったのだと思います。

実際のサリエリは、ウィーンでヨーゼフ2世のもと宮廷作曲家、宮廷楽長として素晴らしいキャリアを築き上げます。宮廷での勤続年数はハイドンを上回るほど長きにわたりました。余談ですが、高齢となったハイドンに敬意を表すかたちでオラトリオ「天地創造」が演奏された際、指揮をとったのはサリエリでした。ハイドンが亡くなる前年のエピソードです。

後進を育てることにも熱心で、教え子にはベートーヴェン、シューベルト、ツェルニー、リストなど、そうそうたる名前が並び、とても尊敬されていたようです。さらにモーツァルト亡きあと、彼の息子にも音楽指導を行ったというエピソードからも、サリエリがモーツァルトを死に追いやったなどの話はやはりデマなのだと確信できます。

経済的に厳しい弟子へは無料でレッスンを行い、音楽家の老後のため共済組合のような組織を作り、慈善コンサートを開くなど、音楽家の生涯を援助する福祉や教育の確立のため積極的に動きました。

また、ウィーン楽友協会音楽ホールの設計にも関わるなど、サリエリの残した功績はとても大きく、彼がもしいなかったら、現在の音楽の都ウィーンは、少し違った街になっていたかもしれません。ウィーンが音楽都市として発展していく時代に欠かせない人物であったといえるでしょう。

フリーランスで宮廷を渡り歩くモーツァルト
ザルツブルク生まれの作曲家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791年)は、幼少時から父でザルツブルク宮廷作曲家、レオポルト・モーツァルトに連れられ、ヨーロッパ各地へ演奏旅行を行いました。王侯貴族の前で神童ぶりを発揮し称賛を得ますが、宮廷に就職するまでには至りませんでした。

25歳でウィーンに移り住んでからも宮廷楽長職の空きはなく、フリーランスで活動することになります。生活のためには作曲だけでなく、弟子をとり音楽のレッスンも行いました。天才ゆえ、人に教えるタイプではないようにも感じますが、父レオポルトにより幼少時から基礎を叩き込まれたモーツァルトは、教師としても優秀だったようです。定職には就けませんでしたが、宮廷の貴族のためにオペラ、交響曲、協奏曲など後世に残る名作を多数生み出し、また、ピアニストとしても人気を博しました。
高収入を得ることに成功したはずのモーツァルトですが、浪費癖が激しく、晩年は経済的にかなり困窮していたことは有名です。

天才モーツァルトでさえも、経済的な安定のため宮廷楽長のポストは魅力を感じるものであったようですが、管理的な業務と事務作業を任される楽長職が務まるかどうかは、また別のお話です。

ベートーヴェンの働き方改革
ドイツ・ボン出身のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770〜1827年)の登場は、これまで王侯貴族のニーズに合わせてきた音楽を、広く民衆に向けた芸術作品として価値を高め、音楽の新しい時代を切り開きました。

宮廷に仕えれば経済的には安定しても、音楽家の身分はあくまで召使いのようなもの。ベートーヴェンは長いものに巻かれることを拒み、演奏会の収入、楽譜出版、レッスンで生計を立てます。貴族とは対等の友人としてつきあいました。

フランス革命が起こり君主制が崩れ、民衆の力で世の中が変化していくタイミングと、ベートーヴェンが思い描く理想の音楽への追求が重なり合った時代でした。変わり者として有名でしたが、友人も多く、市民階級の人々にも敬愛された証拠として、ベートーヴェンの葬儀には2万人もの参列者が集まったと言われています。

 

最後に

今日、クラシックと呼ばれる音楽も、発表された当時はポピュラー音楽でした。宮廷のさまざまなイベントのために作られた膨大な曲の中で、話題となり、市民にも評判が広まったヒット曲だけが、その後も演奏され続け、後世でクラシック音楽の名作と呼ばれることになります。その陰で、イベント一回限りの演奏で忘れられていった音楽も無数に存在したのだと思います。

一見束縛された環境に見える宮廷ですが、王侯貴族が音楽を愛し、作曲家への金銭的支援に理解があったからこそ、途切れることなく音楽が生まれました。そして、芸術文化の発展において無くてはならない、大切な拠り所として存在しました。

 

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