『ドレミファソラシド』

今は当たり前に使われているこの音階。しかし、昔の日本には、そうでない時代がありました。

そんな頃に、今日と何ら変わらない音楽を作った作曲家がいます。名前は「瀧廉太郎」。

今回は彼の生涯と、彼がたった一人で起こした音楽革命にせまっていきます。

滝廉太郎の生涯と経歴

はじめに、滝廉太郎の生涯と経歴をたどっていきましょう。

誕生と音楽との出会い

長い鎖国が終わり、明治の文明開化から10年が過ぎた1879年(明治12年)。旧日出藩士・瀧吉弘の長男として東京府芝区(現:東京都港区)に、瀧廉太郎は生まれました。

父・吉弘は、地方官として転勤が多く、神奈川県、富山県、大分県などに移り住みます。廉太郎も生後間もなくから各地を点々とすることに。

大分県竹田市の旧高等小学校へ入学していた廉太郎は、音楽や美術の芸術分野に目覚めはじめます。特に、学校にあったオルガンとの出会いが廉太郎の人生を決定付けました。音楽の魅力に気づき、オルガンの練習にのめり込む日々。

いつしか廉太郎は、音楽の道へ進むことを強く希望するようになりました。

15歳で東京音楽学校に最年少合格

武士の家系だったことから、父・吉弘は、廉太郎が音楽の道へ進むことに強く反対しました。そんな中、廉太郎の話を聞きつけた叔父・大吉が吉弘を尋ねます。

大吉は当時としては前衛的な建築家であり、廉太郎の想いに共感する部分もあったのでしょう。「天分を全うさせてやった方が、本人のためではないか」。大吉は夜を徹して、吉弘を説得します。最後に折れたのは吉弘でした。

大吉の後ろ盾もあり、かくして廉太郎は東京へ旅立つこととなったのです。

そして猛勉強の末、1894年(明治27年)の9月、東京音楽学校(現:東京芸術大学)に廉太郎は史上最年少15歳で合格します。

才能と苦悩

入学と同時に話題となっていた廉太郎は、本格的な音楽留学から帰国したピアニスト・幸田延に才能を見出され、彼に師事しました。延の下で驚くべきスピードでピアノの腕を上げていく廉太郎。廉太郎はピアニストとして成功するに違いないと、誰しもが思っていました。

そんな廉太郎の前に衝撃的な人物が現れます。それは延の妹・幸田幸(安藤幸)でした。

幼い頃からピアノの英才教育を受けていた彼女の技術は、廉太郎を遥かに上回るものであり、廉太郎はピアニストとして将来に絶望を覚えます。さらに、ドイツへの音楽留学にも廉太郎より幸が先に選ばれてしまう……。ピアノの腕前も、留学生としても幸に越されてしまったのです。

そんな中、明治33年6月、廉太郎へドイツ音楽留学の命令が通達されます。しかし廉太郎は「何も実績が無いまま留学しても成果が得られない」と考え、廉太郎は悩んだ末、この命令を断りました。

時を同じくして、東京音楽学校が「中学唱歌」の作曲者を募集します。廉太郎はそのために作曲した曲で、ついに日本の音楽革命を起こすこととなります。

音楽革命と『荒城の月』

当時の日本の音楽というと、海外の楽曲を輸入し、それに日本語の歌詞を強引にはめこむのが基本でした。強引であったため出来栄えはぎこちなく、日本人作曲家によるオリジナル曲を望む声も高くあった時代。東京音楽学校が中学唱歌の作曲を募集したのには、このような背景があったのです。

廉太郎は、楽曲に付ける詞として土井晩翠が書いた「荒城の月」を選びました。これにどういった曲を合わせるか、試行錯誤の日々が続きます。

ふと、あることに気づいた廉太郎。日本の音楽には昔から「ドレミファソラシド」の4番目「ファ」と7番目「シ」が使われていないではないか。

これは「ヨナ抜き旋法(五音音階・ペンタトニック)」というもので、日本古来の民謡などに多く使われ、日本人に好まれていた音階でした。

廉太郎は日本の音楽を西洋音楽に少しでも近づけようという思いから、ヨナ抜き音階で使われていない「ファ」の音を使い「荒城の月」を完成させます。日本音楽が西洋音楽、そして今日の音楽に一歩近づいた瞬間であり、廉太郎がたった一人で起こした日本の音楽革命でもありました。

ドイツ留学と病魔

1901年(明治34年)、日本人の音楽家では3人目となる音楽留学生として、廉太郎はヨーロッパへ旅立ちます。

1ヶ月あまりの航海を経てドイツのベルリンへ到着。そこで廉太郎は、まるで空気を吸うかのように音楽を楽しむドイツの人々に大きな衝撃を受けます。

数ヶ月後、猛勉強のかいあってライプツィヒ音楽院へ入学。ピアノと作曲を学び始めますが、入学してから5ヶ月後、当時は不治の病とされていた結核に冒されてしまいます。現地の病院で入院治療をするも病状は改善せず、ついに1902年(明治35)に廉太郎は帰国を余儀なくされました。

同年10月に横浜へ着いた廉太郎の最初の言葉は「やられたよ……」だったといいます。

『憾』~廉太郎の死~

失意の中で帰国した廉太郎は、両親のいる大分県へ戻ります。そこで廉太郎は、ある曲を作曲し始めました。

その曲こそ、絶筆となったピアノ曲「憾(うらみ)」です。

瀧 廉太郎:憾(うらみ)  pf. 喜多 宏丞:Kita, Kosuke

曲名の「憾」は憎しみや憎悪ではなく、心残りや無念を意味します。自筆譜の余白には「Doctor Doktor(ドクター)」と走り書きがされており、そこからも窺えるように、この曲は無念、絶望、そして死を確信した、廉太郎の悲壮な想いがこもった曲なのです。

それから数ヶ月後、1903年に廉太郎は23歳という若さでこの世を去りました。あまりにも早すぎる天才作曲家の死でした。

滝廉太郎の作風・曲の特徴~なぜ有名になったのか~

後列:土屋元作、瀧大吉、瀧廉太郎 © Wikimedia Commons

若くして亡くなった廉太郎。音楽家としての活動期間は短かったものの、彼の曲は今でも教科書に載るほど有名ですよね。では、具体的にどんな点が評価されているのか?彼の作風や曲の特徴とともに解説します。

日本初の西洋音楽スタイルの芸術

「荒城の月」で五音音階からの脱却を試みた廉太郎は、同年に日本人として最初のピアノ曲「メヌエット」を作曲しました。この曲には「荒城の月」で使われなかった7番目の「シ」音も含まれ、完全な西洋音階となっています。

さらに「花」という歌曲においても西洋音階と日本語の融合に成功。

このように、西洋音楽スタイルを日本で初めて取り入れた点が、功績の一つとして讃えられています。

メロディーメーカーとしての才能

すべてにおいて、当時の日本では革新的だった廉太郎の音楽。

しかし、彼の曲で注目するべき点は、なんといってもメロディーです。

彼の紡ぐメロディーはとてもキャッチーで、音の運びも自然な流れで美しい。特に歌曲においては、その才能が遺憾なく発揮されており、誰しもが口ずさめるものばかりです。

分かりやすく記憶に残りやすいという点も、後世へ残されるのに重要な要素といえます。

滝廉太郎の代表曲

「荒城の月」

廉太郎の代表作です。前述の通り、日本人が初めて西洋音階で作った楽曲で、日本の音楽史においては非常に重要な地位を占めています。

本曲は短調で作られており、愁いのあるメロディーが特徴的です。また、詞は日本伝統の七五調なのに対し、ハーモニー(伴奏)が完全な西洋和声となってます。こういった点からも、廉太郎の革新的才能を見ることができますね。

「花」

「荒城の月」では使われなかった7番目の音も含まれています。完全な西洋音階に乗せられた日本語の美しさが、存分に引き立つ一曲です。

繰り返される旋律も単なる反復ではなく、ところどころ変化している点にも注目してみてください。

「お正月」

お正月の時期、日本中どこでも歌われている一曲です。廉太郎の作品なのを知らない方もいらっしゃるのでは。

本曲のメロディーは「荒城の月」や「花」と違い、日本古来の五音音階で作曲されています。しかしながら、廉太郎のメロディーメーカーとしての才能が存分に発揮されている作品です。

滝廉太郎の功績と音楽界に与えた影響

© Wikimedia Commons

廉太郎が23年の生涯で作った曲は、はっきりと確認されるもので34曲と、決して多くはありません。

しかし、廉太郎の功績は大きなものばかりです。日本人として初めて完全な西洋音階を使い、日本初のピアノ曲の作曲。さらには日本語を自然な形と発音で西洋音楽と融合させる。廉太郎だからこそ成し得た業です。

今日の日本では、廉太郎が残した音楽を基礎基本とし、多くの楽曲が作られています。まさに日本音楽の開拓者であり、地盤を作った人でもあるのです。廉太郎がいなければ、山田耕筰が登場するまで、日本の音楽の進歩はなかったかもしれません。

まとめ ~もし、瀧廉太郎が…~

もし廉太郎が長く生きていたら……きっと日本の音楽は、もう少し早く進歩していたかもしれません。そして彼は、留学の経験を活かして、交響曲をはじめとする管弦楽曲、そしてオペラまで作曲していたことでしょう。

絶筆となったピアノ曲「憾」の譜面を見ていると、最期まで作曲家であり続けようとした彼の強すぎる魂をひしひしと感じ取れます。

廉太郎が遺せなかった管弦楽曲を、日本人として最初に作曲したのは、彼の後輩となる作曲家・山田耕筰でした。それは廉太郎の死から9年後のことです。