ヒュー、ドロドロドロ……とくれば、真夏の定番「怪談」、ではなくて、怖い話につきもののBGM。あるいはB級ホラー映画のサントラ。そこまできょくたんでなくても、夏の暑い盛りの時期は、気持ちだけでも涼しくしてくれそうな音楽を聴きたくなるもの。
というわけで今回は独断で選んだ、ムシムシジリジリ暑いときにはこんな曲はいかが、というひんやり感が期待できる(かもしれない)「涼しいクラシック音楽」選。
なぜか「寒さ」を感じるシベリウス
これは筆者だけの感覚かもしれませんが、ジャン・シベリウスの作品は一連の交響曲にしろピアノ作品『樹の組曲[5つの小品] Op. 75』にしろ、一貫して「冷たさ」や「寒さ」が感じられます。これはやはりフィンランドという風土的要素が大きいのではないかと思われます。北極圏の荒涼たる原野、オーロラ、湖沼群…シベリウスは1904年、ヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーに自宅「アイノラ」を建て、『交響曲 第3番 Op. 52』以降の交響曲や交響詩などをここで作曲。現在シベリウスの家は一般に公開されていますが、周囲はシラカバなどの自然林、そして数百メートル先にはトゥースラ湖と、いかにもフィンランドらしい自然が広がっています。
シベリウスとくると交響詩『フィンランディア Op. 26』がつとに有名ですが、涼しさということなら交響詩『四つの伝説 Op. 22』の一曲「トゥオネラの白鳥」や、「アイノラ」で作曲された『樹の組曲』の有名な「もみの木」を推したいと思います。
シベリウス『四つの伝説 Op. 22』から「トゥオネラの白鳥」[演奏:ケネス・シャーマーホーン指揮、スロヴァキア放送交響楽団]
元祖「冬」の音楽、ヴィヴァルディ
夏に涼しい音楽を聴きたければやはり「冬」を題材にとった音楽を聴くにかぎる、と思われるかもしれません。なるほどそれも一理ありです。シューベルトには歌曲集『冬の旅 D.911』があり、なかでも第5曲「菩提樹」はだれしも一度は耳にしたことがあるはず。クラシック音楽で「冬」をテーマにした作品となると、チャイコフスキーの『交響曲 第1番 ト短調 「冬の日の幻想」 Op. 13』、ちょっと毛色の変わったところではフレデリック・ディーリアスの『3つの小さな音詩 vi-7』に収められている「冬の夜」という愛らしい小品もあります(ディーリアスには『夏の庭で vi-17』という作品もあり)。
でも冬と言えば、なんといってもアントニオ・ヴィヴァルディの通称『四季』第4曲の「冬」ではないでしょうか。急-緩-急の典型的なイタリアバロックの協奏曲様式を駆使し、身震いするほどの酷寒[アレグロ・ノン・モルト]-暖炉のそばの安らぎ[ラルゴ]-氷の上を歩いて転ぶ[アレグロ]、という情景を活写した短詩ソネットの内容をみごとに音楽化しています。
ヴィヴァルディ『和声と創意の試み 作品8』から「冬」[演奏:イ・ヴィルトゥオージ・ディ・ルガーノ]
「雪の上の足跡」から「アルプス」、果ては「南極」へ
ヴィヴァルディの活躍したヴェネツィアからさらに北上すれば、アルプス山脈。カルタゴの将軍ハンニバルが象に乗ってアルプス越えをしたとかいう話も知られていますが、アルプスとくると個人的にまず思い浮かぶのは以前、現物が来日したときに鑑賞したことがあるジョヴァンニ・セガンティーニのアルプスものの風景画、そしてリヒャルト・シュトラウスの『アルプス交響曲 Op. 64』です。シュトラウスのこの作品、とくに涼しさが感じられるのはオルガンとウィンドマシーンが大暴れする嵐のあとの終結部でしょうか。ひと雨さっと降って、振り返ると眼下の雲海に「ブロッケン現象」の虹が出た、みたいな感覚を聴くたびにおぼえます。
アルプスの西側、フランス音楽でなにか涼しげなものはと耳を澄ますと、クロード・ドビュッシーの『前奏曲集 第1巻』に入っている「雪の上の足跡」が響いてきました。こちらの作品、寂寥や枯淡の大好きな日本人受けする一曲ではないかと思います。ドビュッシーとくると印象派だけに鮮やかな色彩のパレットをつい連想しがちですが、この佳作に流れているのはモノトーンの冬景色そのもの。
さらに西へ行き、天気の変わりやすさで定評ある英国はどうかと探してみると、ありました、その名もズバリ『南極交響曲』。作曲したのはレイフ・ヴォーン=ウィリアムズで、もとは1947年制作の映画『南極のスコット』のために書かれた楽曲を、のちに作曲者自身が交響曲として再構成したものです。スコット率いる南極探検隊に襲いかかる猛烈なブリザードに、涼しさを通り越して震撼(?)するかも。ちなみにこちらの作品も『アルプス交響曲』とおなじく、オルガンが音響効果的役回りで使用されています。
レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ『南極交響曲』[演奏:サー・ジョン・バルビローリ指揮、ハレ管弦楽団 / ハレ合唱団]
寒さや暑さを感じるのも音楽のチカラ
話はいきなり飛びますが、アレクサンドル・スクリャービンという作曲家、この人にはある特殊な能力があったそうで、それが共感覚の一種の「色聴」。読んで字のごとく色を見るとドとかレとかミとかが聴こえる。逆に、あるメロディーラインを聴くと赤とか青とか白とかが見える。そういう特異体質の人が世の中にはいるそうで、スクリャービンの場合は「音を聴くと色が見える」という体質だったようです。
スクリャービンはこの「色聴」を応用して、『交響曲 第5番 Op. 60(プロメテ-火の詩)』を作曲するにとどまらず、それを一般の聴衆にも体感してもらうと、なんと鍵盤で照明の色を変化させる「色光ピアノ」なるけったいな楽器まで作らせています。
でもわれわれ凡人にはそんな「音を聴いて色が見える」なんて能力持ってないでしょ、とか、そんなのあったら落ち着いて音楽なんか聴いてられない、と思われるでしょう。でも、さまざまな音色、質感、高さを持つ音とリズムの組み合わせである音楽作品を聴いて、なぜシベリウスは「寒さ」のほうがつよく感じられるのか、なぜアストル・ピアソラの『ブエノスアイレスの冬』は冬と曲名に冠しているのに(すくなくとも筆者には)冬の寒さより、作曲者のアツさのほうを感じてしまうのか。これこそ音楽の持つ不思議なチカラ、あるいは人間の五感、とくに聴覚の持つ不思議さではないでしょうか。ただ個人的にはシューベルトの『冬の旅』はテノール独唱の歌曲のためなのか、どうしても「歌っている人間の体温」を感じてしまいます。よって涼しくなりたいときは個人的には器楽作品一択になります。
最後に、宇宙を思わせる交響曲の大作で知られるアントン・ブルックナーはどうでしょう。たとえば『交響曲 第8番 WAB 108』の第3楽章は、シューベルトの歌曲『さすらい人』の引用主題が静かに入りハープがいかにも涼やかなフレーズを奏でたりしたあと、劇的な盛り上がりもあるにはあるけど最後は煙のように立ち消えるお決まりのスタイル。この作品は全曲通して聴くと、版によって多少前後しますが演奏時間約90分とたいへん長い作品。それでもこの作品を聴けば、人間の営みの小ささを思い知らされると同時に、こんこんと湧く清水を一服、口に含んだときのように気分もリフレッシュされる、いわばおクスリのような音楽。おまけにこちらは副作用もないし、安心して服用できるのもいいところです。
アントン・ブルックナー『交響曲 第8番 WAB 108』から第3楽章[演奏:ヘスス・ロペス=コボス指揮、ガリシア交響楽団]