リコーダーといえば、誰もが小学校時代に一度は手にし、吹いた経験がある楽器。木の筒に穴を開けただけという単純な構造で、オモチャの楽器のように見られているかもしれませんが、演奏家の手にかかると、なんとも素朴で涼やかな、森をわたる風のような、気持ちのいい音が発せられます。ミカラ・ペトリは小さな頃にリコーダーを手にし、長く演奏する中でこの楽器の可能性を大きく広げてきた演奏家です。

From Michala Petri website(biography page)

ミカラ・ペトリ
デンマーク生まれ。3歳でこの楽器を手にし、11歳のとき、コンチェルトのソロ奏者としてデビュー。バロック期の作品に加え、現代の作曲家による楽曲の演奏も多く、彼女のために書かれた100を超える作品がある。フィリップスやドイツ・グラモフォンなど有力レーベルからのリリースの他、自身のレーベルOUR Recordingsからもユニークなアルバムを出している。

  • インタヴューアーはシカゴのブロードキャスター、ブルース・ダフィー。クラシック音楽専門ラジオ局Classical 97で、1975年から2001年まで、1600人を超える音楽家のインタビューを行ない、1991年に米国作曲家作詞家出版者協会のディームズ・テイラー・ブロードキャスト賞を受賞しています。インタビューの日本語版は、ブルース・ダフィー本人の許可を得て翻訳したものです。

*1990年2月26日、シカゴにて

自然の音みたいに響く楽器

ブルース・ダフィー(以下BD):21世紀に向かおうとしている今、18世紀の楽器を演奏する喜びと悲しみを教えてください。

ミカラ・ペトリ(以下MP):うーん、ひとことで言うのは難しいわね。どんな楽器にも喜びと悲しみの両方があるけど、わたしにとってリコーダーは最高の楽器なの。最初に演奏した楽器であり、いちばん馴染みある楽器だからね。つまり何よりも自分の表現ができるわけ。他の楽器と比べてより美しいという意味じゃなくて、わたしがいちばん好きな楽器だということ。

BD:リコーダーを吹くのは楽しいんでしょうか?

MP:そう思う。リコーダーは独特の音をもっていて、自然の音みたいなね、それが多くの人々に好かれる理由だと思う。実際、わたしのコンサートに来る人たちは、ピアノやバイオリンのコンサートにはあまり行かない人たちかもしれない。普通のコンサートに来る聴衆とは、少し違う人々なわけ。

BD:フルートの演奏は聞きにいく人ですか。

MP:そうかもしれない。行くでしょうね。でもコンサートにはまったく行かない人もいるでしょうし、自分の子どもがリコーダーを吹いているとか、それでコンサートに来るといったね。

BD:この楽器が音楽的に素晴らしいもので、おもちゃの楽器ではないという事実をわからせるのは難しいんでしょうか。

MP:イエスでありノーだわね。わたしがいつも戦っていることというか。練習してるときに、とつじょオモチャの楽器みたいな音がして、恐ろしくなるの。それでもっと練習しなくちゃってね。それからまた突然、バイオリンとかクラリネットとかオーボエみたいな音楽的な音が聞こえてきて、これで大丈夫と思うわけ。だけどわたしのイメージの中でさえ、他の人のじゃなくてね、音に関しては戦う必要があるの。認めなくちゃいけないのは、本質的に、この楽器はとても簡易な構造のものだということ。木の切れ端で作られていて、八つ穴が空いてるだけだから。他の木管楽器みたいに精巧なキーとか、そういうものはないから。

BD:リコーダーのすべてがそうではないんでしょう?

MP:あーそうね。その通り、同じリコーダーでも音に大きな違いがある。いちばん小さなリコーダーは、いちばん大きなものとはとても違う音が出るわね。(スーツケースから3種類のリコーダーを取り出して)この三つの大きさの違うリコーダーは、コンサートでよく使われるもの。いちばん大きいもの、これにはレパートリーとなる曲がたくさん書かれている。中でもバロック時代の音楽ではね。トレブルリコーダー、またはアルトリコーダーと呼ばれるもの。(2オクターブを吹いてみせる。ト長調の音階を上行し、アルペジオで下降する)

それからこれ、子どもたちが最初に手にするもので、ソプラノリコーダー。少し小さいの。(2オクターブをニ長調の音階で上がっていき、アルペジオで下がってくる) そしてこれ、いちばん小さいリコーダーでソプラニーノという。(2オクターブをト長調の音階で上がっていき、アルペジオで下がってくる。2倍の速度で、スタッカートをつけて吹く。ピッコロのような音色) この三つがいちばんよく使われるサイズなの。もっと大きなリコーダーもある。テノールにバス、ダブルバス(またはグレートバス)、そしてサブグレートバス、長さが180cmもあるの。これはリコーダーの上部にパイプがついていてね。

ロマン派時代には一度忘れ去られた

BD:あなたはかなりのレパートリーをお持ちですけど、新しい曲の依頼や他の楽器の曲のアレンジもしてます。

MP:そのとおりね。この二つは違うことだけど。リコーダーのレパートリーは、人が思ってるほど限られたものではないけど、そうであっても、自分の演奏や表現を発展させようとするとき、制限がかなりある。だからそれを越えるために、いくつかのことを試みている。一つは他の楽器のために書かれた曲を、リコーダー用に書き換えること。バロックの音楽ではこれが完璧にうまくいくの。それはあの時代は、違う楽器で演奏することが普通だったからね。多くの楽曲はリコーダーでもフルートでも、オーボエでもバイオリンでも演奏できるように書かれている。こういった楽器のどれもが、伴奏楽器としてオルガンとかハープシコード、あるいはリュートでも、そういう通奏低音の楽器とともに演奏されるの。

BD:では作曲家は、音符が読めて演奏可能なら、誰であれ自分の持ってる楽器で演奏してほしい、といった。

MP:そのとおり、まったくそうなの。あの時代にはまったく普通のことだったのね。特別なことじゃなかった。バロック時代に他の楽器の曲を取り上げて演奏するのは、理にかなってたわけ。わたしはヴィヴァルディの『四季』を書き換えた。それからさらにレパートリーを広げる試みをしている。現代の作曲家にもたくさん依頼していて、それはまたとても楽しいことなの。いろいろ挑戦になるからね。とはいえバロックの楽曲はいつも豊富にあるでしょう。わたしはいつもバロック音楽のことを話してる。リコーダーにとって、バロックの時代から20世紀初頭までの間に、大きなギャップがあるからなの。その間リコーダーはあらゆる作曲家たちから、完璧に、あるいはほとんど忘れ去られていた。だからこんな大きなギャップが生まれて、バロックか現代曲かっていうことになってる。

『Cafe Vienna』夫のラース・ハンニバル(ギター)とのデュオ。自身のレーベルOur Recordingsより(2009)

 

BD:厳格なバロック様式で演奏しているものを補完するために、新たな音をバランスとして必要とすることはあるんでしょうか?

MP:それは常にあることね。そうだと思う。

BD:では20世紀の新しい音は、バランスをよくする助けになる?

MP:それは絶対そう。確実にそうね。もしリコーダーでバロック音楽しかやる可能性がなかったなら、楽器としてこれをやり続けることはなかったかもしれない。どれだけわたしがこの楽器に親密感があって、どれほどこの楽器なら自分を表現ができると思っていたとしてもね。現代の音楽をやるのは救いになるの。

この楽器のためにロマン派の音楽があまり書かれていないことも、現代曲ほどにね、残念だと感じてる。さっきも話したけど、リコーダーはバロックと20世紀初頭の間のところで忘れ去られてしまった。でも実際には、リコーダーのことを忘れなかった作曲家がいて、曲を書いているの。ごく最近まで知られていなかったんだけど。アントン・ヘベルレとエルンスト・クラーマーよ。わたしは自分でこの二人の作曲家の曲をたくさん見つけたの、いろいろな図書館でね、古い出版物とか古い草稿とか。彼らはオーストリアとかハンガリーに住んでいた人たちで。あまり彼らのことは知られてないけど、それぞれ20曲ずつくらいの作品を見つけたの。レパートリーに加えるのに、とてもよかった。ヘベルレはモーツァルトの時代で、クラーマーは少しあとの時代なの。二人は素敵な曲をそれぞれ書いてる。深みがあるというわけではないけど、とてもいい曲だし、アピールする作品なの。わたしはそれぞれいくつかの曲を録音してる。とても名人芸的なところと、ちょっと誇示するようなところもあって、『ヴェニスの謝肉祭*』みたいにね。そういうものはたいてい難しそうに思われるけど、彼らの曲はとても簡単なの、ダブルタンギングとかそういったもので。(名人芸的な部分を吹いて見せる。幅広い音域で同じ音を繰り返す) 聞いてるよりは吹くのはずっと易しいの。でもとても輝かしい音がするし、楽しい曲よね。

*ヴェニスの謝肉祭:ナポリ民謡(いとしいお母さん)をもとに、ヴァイオリニストで作曲家のニコロ・パガニーニが変奏曲(ヴァイオリンと管弦楽のための作品)を書き、世に広めた。

 

音楽は完璧でなくてもいい?

BD:こう感じたことはあるんでしょうか。聴衆が前の晩に聴いたレコードの自分の演奏と、コンサートホールで競っているというような。

MP:そう考えないようにしてる。神経質になってしまうもの。以前はそう思ったけど、今は舞台に行って、最高の演奏をすることだけ考えてる。聴衆がレコード化された音楽と比べるかも、と考えるんじゃなくて、ホールでの体験を楽しんでほしいと思ってるわね。

BD:そうであっても、レコードが出たときは、嬉しいんでしょうか?

MP:(直ちに)いいえ、まったくよ。

BD:(驚いて)まったく?

MP:ないわね。

BD:(なだめるように) ええっ、でもわたしたちはすごくレコードを楽しんでますけど。

MP:ああ、それは嬉しいことだわね。わたしが言おうとしたのは、レコードを聞くと、良くないところを見つけてしまうからよ。でも最近の録音については、最初のころのものより満足してるわね。録音スタジオでは、もっともっと演奏を磨かなくちゃと思う。録音のたびに新たな体験をしてるわね。

BD:そこで得た新たなアイディアを、次のコンサートで聴衆と分かち合うんでしょうか。

MP:それほどでもない。わたしにとって、音楽とは別に、演奏の場がすごく違いを生むから、二つを比べることはできないの。一番難しい状況は、コンサートホールでの演奏が録音されている場合ね。コンサートで演奏するのはいいの。それがライブで放送されるのは、さらなる聴衆を相手にするっていうことよね。でもコンサートで演奏するものが録音されていると知っていることは、コンサート会場で何か起こすことと、録音を完璧なものにしたいという気持ち、その両方を満足させることになる。この二つを一緒にやるのは難しいことなわけ。でも演奏をしてるときは、それが録音されていたとしても、パフォーマンスすることに力を入れている。完璧な録音よりも、ライブのパフォーマンスに力を注ぐわね。

BD:音楽は完璧であるほどいい?

MP:いいえ。完璧主義のために、音楽性を犠牲にするべきじゃない。演奏が完璧かどうかは問題じゃないの。音楽性こそが大事。

 

聞く人の耳が開かれるとき

BD:ではここで哲学的な質問をします。社会にとって音楽の目的とは?

MP:(しばし考えて) 説明はできないと思う。音楽を感じることができれば、その目的が何かはわかる。それが感じられないなら、目的について言うのは難しい。音楽はとても重要だと思ってるの。素晴らしい音楽家の演奏を聴きに行ったり、素晴らしい俳優の舞台を見に行ったりすると、劇場から出てきたときに、わたしはとても楽観的になっていて、すごく幸せで、エネルギーに満ち溢れて、自分の仕事にとりかかる気力がムクムク湧いてくるわけ。音楽の目的の一つ、とてもいい面だと思う。

こういう風に言うのは簡単だけど、なぜそうなのか説明することができないところに、音楽の重要性を感じてる。自分の生活や人生を考えれば、言葉にできること以上のことがあるわけで、だから音楽はそういう意味で大切ね。他の様々なアートと同じようにね、演劇も大事、そう思う。コミュニケーションの形を取るものは、何であれ重要。コンピューターから情報を得るより、わたしたちは感覚とか感情をやりとりするべきなの。

BD:あなたはコンピューター化されたメカニズムの一部になることを、望んでいないと。

MP:(確固として)ない、ない、ないわね、ないですよ、まったく。

BD:コンサートは、すべての人のためにと思って演奏してますか。

MP:そう思うわね。来ている人は音楽愛好家や専門家ばかりだと思っていたけど、たまたまコンサートに来た人とか、席を埋めるためにすわっている人とか、オーケストラのためにとか、そういう人たちがいることもわかってきた。その人たちは何かの理由でコンサートに来ることになったわけだけど、あとになって、コンサートで音楽を聴く素晴らしさについて、やって来て話すことがある。それが素晴らしいっていうことを知らなかったの。こういうことは、とても嬉しいし、幸せな気持ちになるわね。新しい聴衆と出会えたって思えるから。で、音楽のことで面白いと思うのは、そんな風にして音楽を一度聴くと、つまりそんな風に音楽に対する耳が開かれると、それをいつも感じることになるの。その先ずっと、音楽をそれまでと違う風に聴くようになる。何かがそこで開かれたわけ、そういうことが起きるのは、本当に素晴らしいことね。だから音楽は、みんなのためにあると思う。

BD:今日の午後を一緒に過ごしていただいて、ありがとうございます。とても感謝してます。いろいろ学びましたし。

MP:どうもありがとう。

BD:とっても楽しかったです。それから実演も、ありがとう。

MP:こちらこそ、ありがとう。