大オーケストラの片隅で、大きな楽器を抱えて一人ぽつんと座っている男。やおら楽器を取り上げて吹いて、すぐまた楽器をおろして座り続ける。遂に終盤、全オーケストラの強奏の中に溶け込んでしまっている男。それがかつての私でした。
私はかつてアマチュアオーケストラでチューバを吹いておりました。チューバは金管楽器の最低音を受け持つ楽器です。「最長で960cmにもなる円錐管」です。大きな楽器を抱えて出番を待つ男は何を見、何を感じていたか、お話しいたします。

1.チューバ奏者にはオーケストラの音は聞こえない。

「チューバは全楽器群を支える深い音性を持つ」等と解説書には書いてあります。
低音に厚みをつけ、オーケストラ全体を包み込んで音色を変えてしまう強力な楽器です。
でも、吹いている側からすれば、別の世界が見えてきます。
吹いているときには自分の音以外は(時には自分の音すらも)聞こえません。あの深い音で自分の全身が響いています。目がくらむときすらもあります。他の楽器の音など聞こえないのです。
では、どのようにして音量のバランスを感じ、ふさわしい響きを生むのか。
指揮者の指示に頼ります。何も言われないから多分これぐらいでいいのだろう、等と勝手に考えています。お隣のトロンボーンや、トランペット、あるいはコントラバスなどの響きを頭の中で想像しつつ、いわばバーチャルな世界で、きっとこれでいいはずだ、と信じて吹き続けるのです。
ですから、時には失敗します。調子に乗ってバカバカ吹いていると他の楽器群を圧倒して、一人チューバの音だけが飛びぬけてしまうこともあるのです。
リストの「前奏曲」の本番でした。
さすがに、そんな失敗をした後は、指揮者も注意してくれます。
「チューバ、もっと音を抑えて」「もっともっと抑えて!」
そのときはタンホイザー序曲だったと思います。トロンボーンの熱い響きをチューバが支える箇所でした。裏方に徹することを厳しく指示されたのでした。

2.チューバ奏者が指揮者を見る目は実に厳しい。

大オーケストラの指揮者は、あちこちの楽器に目配りして的確な指示を出す必要があります。はっきりいって、前述のようなよほどのことがない限りチューバのことなど構っていられないのです。
そこでこんなことが起こりました。
チャイコフスキーの交響曲だったでしょうか。徐々にクレッシェンドして、全オーケストラの爆発に至るべき箇所です。
指揮者は丁寧に弦楽器、木管楽器等々に細かな指示を与えつつ、あのトゥッティ(オーケストラの全奏)に近づいていきます。
私は、楽器を抱え上げ、マウスピースに口をつけ、今か今かと自分の出番を待っていました。ところが、まさにその直前、「はいそこまで!」として指揮者が曲を止めてしまったのです。まさに盛り上がりの前の最後の段階を仕上げていく狙いだったのでしょう。
それが幾度か繰り返されました。

遂に私はキレました。

練習後の打合せで全員の前で指揮者に詰め寄りました。
「私はトゥッティの10数小節前には楽器を構え、神経を集中して自分の出番に備えているのです。その直前に『はいそこまで!』で止められてしまったら、神経が持ちません。
曲を止めるのは、ともかくトゥッティに入ってからにしてください!」
このような思いは別にチューバ奏者に限ったことではないでしょう。例えばシンバル奏者が、まさにあの一発のために仁王立ちになって楽器を構え、その瞬間を待っているときに「はいそこまで!」とやられたら、ずっこけてしまうでしょう。

花形楽器だけでなく、全ての楽器に目配りして心を奮い立たせるのが指揮者の役割なのです。

3.チューバ奏者は子供たちの英雄

市民ブラスバンドの一員として野外コンサートに参加することもしばしばありました。
それこそ市民グラウンドにいすを並べて、蚊取り線香で蚊を追いやりながら演奏したりするのです。
子供たちは興味津々で奏者のすぐ前までやってきます。
そんなときの一番人気は「スーザフォン」でした。
あのアメリカの行進曲王ジョン・フィリップ・スーザによって考案された屋外演奏用のチューバと考えていただけばよいでしょう。大蛇が体に巻きついて、頭の上から大口を開いて(要するに大きな朝顔を備えて)聴衆に向かっている、そんなイメージの楽器です。
子供たちは、この朝顔、それとも大蛇の大口の前まで遠慮なくやってきて、いざ演奏が始まると、キャッキャと耳を抑えて後ずさりするのです。

4.チューバ奏者が聴く世界

私が中学校のブラスバンドで初めてチューバに出会ったのは、比較的体が大きく、またほかの楽器が余っていなかった、というだけの理由でした。それから夢中になって20年以上も吹き続けてきたのです。
チューバは体力を使います。大阪から東京に転勤して管理職に昇進し、さすがにアマチュアオーケストラ活動の時間もなくなりました。自分の楽器はしばらく大事に部屋の隅に転がして持っていましたが、その後、病気で入院したのを機に遂に処分しました。
そして、人の演奏を聴く楽しみは、いまでも大切なひと時です。
最近の若い人は本当に素晴らしい楽器を持ち、素晴らしい技術で心に響く演奏を聞かせてくれます。

東京はアマチュアオーケストラの宝庫です。熱心な人なら年に100回もの演奏を聴こうと思えば聴けるのです。それも無料であったり、ごく安い入場料で足りるのです。
2月から3月にかけて、私の大好きなマーラーの交響曲の、第1番(巨人)、第2番、そして第10番(未完の大曲を後世の人が編曲したもの)、と立て続けに聞く機会に恵まれました。
あの巨大な編成、変幻自在のめくるめく世界の中で、チューバの深い響きが立ち上がるのを、いまは聴衆の視点で楽しんでいます。ただの聴衆ではなく、かつては現役であの中の一員でいたことを大事な思い出にしつつ、若い皆さんに声援を送り続けています。

Mahler “Symphony No 10 (Cooke version)” Simon Rattle