この生まれて間もない素晴らしいピアノ・アルバムをどのように紹介したらいいものか、試聴音源を聴きながら考えていました。そして浮かんできたのが、「このピアニストを知らない人、その音楽世界をまだ<見た>ことのない人」のために書いていこう、ということでした。
案内人
- だいこくかずえ小さな頃からピアノとバレエを学び、20歳までクラシックのバレエ団に所属。のちに作曲家の岡利次郎氏に師事し、ピアノと作曲を10年間学ぶ。職業としてはエディター、コピーライターを経て、日英、英日の翻訳を始め、2000年4月に非営利のWeb出版社を立ち上げる。
ヴィキングル・オラフソン(Víkingur Ólafsson:1984年2月14日 – )
アイスランドのピアニスト。母親はピアノ教師、父親は建築家で作曲もするなど音楽一家に生まれ、育った。2016年、名門ドイツグラモフォンと専属契約。以降、ほぼ毎年アルバムをリリースしている。
一つ提案があります。このアルバムを最初に聴くとき、曲目リストを見ずに、まずは耳だけで聴いてほしいということです。誰の作った、何という曲なのか、知らないままに、ただ音楽の流れるままに、音に身をまかせて聴いてもらえたら。そうすればオラフソンのつくる素晴らしい音楽世界を最高の状態で体験できるのでは、と思うのです。
静かな日曜日の昼下がり、ソファで横になってこのアルバムを聴いていたら、いつのまにか眠っていた、夢の世界を漂っていた……気づいたらすべての曲は終わっていた。シンとした、それでいて暖かな何かが心の底に感じられた。
『フロム・アファー』は、こんなことが起きそうなアルバム。
[フロム・アファー Album Trailer]
音でつたえる手紙
「I couldn’t find the right words(言葉でうまく言いあらわせなかった)」
Album Trailerの中でオラフソンはそう語っています。2021年9月、ブダペストで95歳の作曲家クルターグと会い、話をし、ピアノを弾いて聞かせ、音楽の、人生の教えを受けた、その感謝の気持ちをなんとか本人に伝えたいと思ったけれど、言葉が見つからなかった、と。
*ジェルジュ・クルターグ(ハンガリーの作曲家。1926年~)
そのときオラフソンの頭に浮かんできたのは、音楽地図でした。クルターグのつくった曲、クルターグ編曲によるバッハ、オラフソンが子ども時代に好きだった曲、クルターグと同郷のバルトークのピアノ曲、オラフソンの国アイスランドの作曲家の作品、あるいは民謡。こういったものがオーガニックにつながり、オラフソンの頭の中で一つの地図を形成しました。
このアルバムは1枚の地図、あるいは感謝の気持ちを伝える手紙なのです。多くの作曲家が(中でもクルターグはそうですが)、特定の人に手紙を書くようにして曲をつくってきました。オラフソンはピアニストなので、曲を書く代わりに、遠い過去から現在にいたる様々な楽曲を思い起こし、最適なものをセレクトし、クルターグへの手紙として編み上げました。
静けさ:アイスランド、最北の地
よくこう聞かれます、アイスランドという土地が、わたしの音楽に、人生に影響を及ぼしたかどうか、と。それに答えるのは難しいです、影響というのは複雑で、漠然としたものだから。ただ、ここは世界のどこよりも、静けさを感じられる場所です、そのことははっきりと言えます。(『フロム・アファー』Album Trailerより)
『フロム・アファー』のAlbum Trailerには、アイスランドの荒涼とした、音のない世界を連想させる奇怪にして美しい風景が描写され、そこをオラフソンがひとり歩いていきます。Silence(静けさ、沈黙)は、オラフソンの音楽世界を語るときの重要なキーワード。Hushed(静まり返った、シンとした)という言葉でも、オラフソンはこのことを表しています。10代の初めにシューベルトの歌曲集『冬の旅』を聴いたとき、この作品はすぐさま「hushed」のカテゴリーに分類された、と過去のブログにはあります。
ちょうどその頃、父親が「これは20世紀の『冬の旅』だ」と言って、手渡したのがクルターグの歌曲集『カフカ断章』でした。オラフソンはクルターグの音楽にそのようにして、長く親しんできたのです。
音楽は音を出すことで、一つの世界を構築する方法ですが、その音楽が「静寂」を求めるとはどういうことなのでしょう。『フロム・アファー』をわたしは「静寂のアルバム」と呼びたいと思います。
アップライトピアノ
このアルバムは2枚組です。1枚はグランドピアノで、もう1枚はアップライトピアノで演奏したもの。収録曲、順番、すべて同じです。
オラフソンはなぜこんなことをしたのでしょう。
二つのピアノで同じ曲を弾いて録音してみて、どちらか片方を選ぶことはできなかった。二人いる子どもの一方だけを選べないようにね。(『フロム・アファー』Album Trailerより)
オラフソンはAlbum Trailerの中で、このように語っています。ではそもそも、なぜアップライトピアノで録音したのか。オラフソンは近年、アップライトピアノで弾く実験をしており、その音に深い愛着を覚えているそうです。華麗な音を響かせるグランドピアノはもちろん素晴らしいけれど、小さなパーソナルな音で演奏できるアップライトは、子ども時代、自室にあった古いアップライトとつながる音のようです。
実は、今回のレコーディングのきっかけとなったクルターグも、アップライトピアノの音を好み、妻のマルタとバッハの連弾曲を録音しています。こんなところにも、この二人の共通点はあるようです。
今回の録音につかわれたアップライトピアノはフェルトピアノといわれ、打鍵したとき、ハンマーが直接弦を叩かず、間にあるフェルトを叩くことで、響きを抑えた小さな音が出るようになっています。「暖かで、夢見るような音」とオラフソンは言います。これは一般のアップライトピアノの真ん中のペダル(弱音ペダル、マフラーペダル)を踏んだときの効果と同じ。オラフソンが普通に弱音ペダルをつかって録音したのか、特別製のフェルトをピアノにセッティングしたのか、レーベルのドイツ・グラモフォンによる説明を読んでもわかりませんでした。オラフソンは、ジョン・ケージがプリペアードピアノを「発明」したきっかけについて書いていたことがあるので、もしかしたら、これはオラフソンにとってのプリペアードピアノなのかもしれません。
このピアノで演奏された全22曲は、グランドピアノのものとは全く違う音がします。打鍵のときフェルトが擦(こす)れるシュッシュ、ポクポクのような音がはっきりと聞きとれ、最初びっくりしました。普通なら「雑音」といわれる音だからです。それをオラフソンはあえて録音に入れ、しかもマイクをできるだけピアノに近づけて、雑音も含め、奏者のタッチが感じられる生々しい音をとらえています。
それぞれのバッハ編曲
このアルバムにはバッハを原曲とする3つの編曲作品が含まれています。クルターグ編曲のものが2つ、オラフソンによるものが1つ。バッハ自身、1つの楽想で楽器を変えて改作することも多い作曲家ですが、クルターグはこれまでバッハの作品を数多くピアノ用に編曲、演奏してきました。またオラフソンも編曲モノを弾くだけでなく、自らも好んでバッハの編曲をしています。
アルバム3曲目の「無伴奏バイオリンソナタ第3番」は、オラフソンによる編曲です。ハ長調で「ドーレ、ドーレ、ドーミ | レーミ、レーミ、レーミ」とゆっくりしたテンポで超シンプルに始まるこの曲。冒頭の不協和音にはじまり、徐々に美しい和音を重ねながら上行していきますが、バイオリンの楽譜をそのままピアノで弾いても問題なく楽しめるところがあります。オラフソンの編曲・演奏では、バイオリン独奏とは趣(おもむき)がかなり違い、元からピアノ曲であるかのように聞こえます。オラフソンはこのバッハ編曲作品を、2019年に亡くなったクルターグの妻、マルタに捧げています。
アルバム11曲目のバッハ『6つのトリオ・ソナタ第1番』は、クルターグによる編曲で、オラフソンに献呈されました。クルターグが妻のマルタと演奏していたように、このアルバムでは、オラフソンはピアニストの妻、ハッラの「右手を借りて」この3手連弾曲を録音しています。ピアニストの妻と連弾し録音するクルターグ、そしてオラフソン。「husband-wife performing tradition(夫と妻による演奏の伝統)」を受け継ぐことができて嬉しい、とFacebookにオラフソンは書き込んでいました。以下の演奏はアップライトピアノ版。
そしてこちらはクルターグ自身によるバッハ編曲をマルタと連弾している動画です。アップライトピアノで、フェルトをつかっているのでしょうか、温かく籠った音がしています。
それぞれのローカルソング
クルターグ、オラフソン、それぞれの故郷にちなんだ楽曲が、このアルバムにはあります。クルターグの出身地であるハンガリーから、バルトークの『3つのチーク県の民謡』(とても小さな3曲です)、そしてアイスランド在住の作曲家、ビルギッソンによる『生と死が宿る場所』(アイスランド民謡のリコンポーズ)です。
またアイスランド生まれの楽曲としては、作曲家で医師のシグヴァルディ・カルダロン(1881~1941年)の『アヴェ・マリア』が収録されています。これはオラフソンの編曲によるものです。原曲はアイスランドの民話から生まれたもので、冠婚葬祭の席で演奏され、土地の人々に親しまれてきた曲のようです。
プレイリストのようなキュレーション
オラフソンのアルバムには、どこかイージーリスニング的な趣があります。様々な時代の、有名無名をとりまぜた楽曲がオラフソン流の綿密なプランに沿って選ばれ、さらには編曲によって全体の統一感がもたらされているせいでしょうか。各楽曲はどれも数分以内と短く、ポップスのプレイリストを思わせます。
クラシック音楽は、1つの楽曲が最低でも15分くらいの長さとまとまりがあることが多く、「すべてをちゃんと聴く」ことが求められているような、やや堅苦しい気分があります。多くの人が聞いているポップスはというと、ほとんどが数分以内で、ストリーミングの時代になる以前から、シャッフルしたり、自分好みのプレイリストを作ったりと、オーディエンスの側に聞き方の自由がありました。
オラフソンのアルバム作りは、音楽の聞き方の自由を、クラシックの世界にも提案しているように見えます。
クラシック音楽に、いい意味でのイージーさ、軽さをもたらし、聞く側のハードルを下げつつ、それでもなお高い音楽性によって多くの人を惹きつける音楽。そういった音楽のあり方を、ニューアルバムを始めとするオラフソンのアルバムからは感じとることができます。
『フロム・アファー』
2022年10月7日(金)発売
▽収録曲
CD1: グランド・ピアノ/CD2:アップライト・ピアノ(同曲収録)
01 J.S.バッハ:キリストよ、汝神の子羊 BWV 619(クルターグ編)
02 シューマン:カノン形式による6つの練習曲 作品56から 第1番
03 J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第3番 ハ長調 BWV 1005から 第1楽章:Adagio(オラフソン編)
04 クルターグ:ハーモニカ(ボルソディ・ラースロー讃)(《遊び》 第3巻から)
05 バルトーク:孔雀(《3つのチーク県の民謡》 Sz.35aから第1曲)
06 バルトーク:ヤノシダの広場にて《3つのチーク県の民謡》 Sz.35aから第2曲)
07バルトーク:白百合(《3つのチーク県の民謡》 Sz.35aから第3曲)
08 ブラームス:間奏曲 ホ長調 作品116の4
09 クルターグ:遠くから(《遊び》 第5巻から)
10 ビルギッソン: ウェア・ライフ・アンド・デス・メイ・ドウェル(アイスランド民謡)
11 J.S.バッハ:6つのトリオ・ソナタ 第1番 変ホ長調 BWV525から 第1楽章:Allegro moderato(クルターグ編)/ハッラ・オッドニイ・マグヌスドッティア(ピアノ)
12 カルダロン:アヴェ・マリア(オラフソン編)
13クルターグ:小コラール(《遊び》 第1巻から)
14モーツァルト:主をほめたたえよ(《ヴェスペレ》 K.339から)(オラフソン編)
15クルターグ:眠そうに(《遊び》 第1巻から)
16シューマン:トロイメライ(《子供の情景》 作品15から)
17 クルターグ:花、私たちは(《遊び》 第7巻から)
18アデス:ザ・ブランチ
19クルターグ:鳥のさえずり(《遊び》 第1巻から)
20シューマン:予言者としての鳥(《森の情景》 作品82から第7曲)
21ブラームス:間奏曲 ホ短調 作品116の5
22クルターグ:コリンダ・メロディーの断片―かすかな思い出(フェレンツ・ファルカシュ讃)(《遊び》 第3巻から)
ヴィキングル・オラフソン(ピアノ)
ハッラ・オッドニイ・マグヌスドッティア(ピアノ)[11]
録音:2022年4月11日~15日 レイキャヴィク、ハルパ・コンサートホール、ノルズルリョウズ・ホール