対話の中の二人

今年5月、オーボエ奏者で作曲家のハインツ・ホリガーの80歳バースデー記念として、『対話』と題したアルバムがリリースされました。ミュンヘンに拠点を置く、マンフレート・アイヒャー率いるECMレコードによるものです。このアルバムは『対話』というタイトルどおり、二人の作曲家が対話するようにして、短い楽曲をつむいでいます。多くはオーボエ・ソロ、あるいは他の木管楽器によるソロか、オーボエも含めた木管によるデュオです。ゆっくりしたテンポの単旋律、または複数の旋律によって曲が語られていきます。

ホリガーと対話するのは、ジェルジュ・クルターグ(93歳)、ハンガリー出身の作曲家、ピアニストです。この二人は長年の友人関係にあり、また作曲に対する考え方や技法に共通点があると言われています。本人たちもそれを認めているようです。『対話』に収録されている曲について言えば、どちらがどの曲の作者なのか、言い当てるのが難しいくらいです。

「わたしたちの書法は、ほんとうに似ている、同じだね」

録音を聞いたクルターグが、ホリガーにこう言ったそうです。名のある成功した作曲家が、自分が他者に似ていると発言するのは珍しいことかもしれません。何がどう似ているのか、CDのブックレットには次のようなことが書かれていました。

両者とも作曲において、西洋音楽史の全体をフレームとして使い、小規模な小さな楽曲を好み、友だちや音楽仲間への賛歌を追求し、生存の、あるいはもう亡くなった心の同志たちとともに、現代の「ダヴィド同盟*」を育み、ともに文学への強い愛と関心をもち、それだけでなく同じ詩人、作家への興味を示してきた。(訳:筆者)

*ダヴィド同盟:ロベルト・シューマンによって創設された架空の音楽ソサエティ。文学同盟を参考に、同時代の音楽を中傷する者からの保護のために作られた。


一方のホリガーは、ECMのサイトのビデオ・クリップで、クルターグについて、自分との同質性について、次のように語っています。

クルターグにとって、音楽はしばしば誰かが亡くなった時に書かれます。追悼です。それは音楽は生と死の境界を超えられる唯一の芸術だからです。言葉が終わったとき、音ははじまります。一種のメタ言語なのです。言葉が行きついたその先に始まるものなんです。これがジェルジュの追悼の曲を書く方法で、わたしの方法でもあります。

音楽は生と死の境界を超えるもの、言葉が終わったとき音がはじまる。『対話』にはいくつかの追悼の曲が含まれています。第1曲『遠い世界からのウルズラへの手紙』は、ホリガーの妻ウルズラの死に際して、クルターグが書いた曲。ホリガーのオーボエ・ソロで演奏されます。

第2曲『Mのための子守歌』はホリガーの曲で、弟子のマリー=リーゼ・シュプバッハの母親が死んだ際、彼女に贈ったイングリッシュ・ホルンのソロ曲。イングリッシュ・ホルンはオーボエに似た楽器ですが、低い音域を聞くと、この楽器だとわかります。Mこと、シュプバッハ自身が吹いています。

第3曲『ハインツのために』は、ウルズラの埋葬に向けてクルターグが書いたピアノ曲で、贈られたホリガー自身が弾いています。左手のみの曲で、右手のパートがないことが、身近な人間を亡くした悲しみと喪失感を際だたせているように聞こえます。低音部で鐘のように響く同音の繰り返しと、曲中の長い沈黙が哀しみの深さを想像させます。


ホリガーはビデオの中で、「Klangrede」という言葉を使っていました。ドイツ語ですが、普通の辞書には載っていません。18世紀の音楽様式で、スピーチ・メロディーのような意味と思われます。クルターグもこの様式を使っており、その点が二人の最も似ている点かもしれない、とホリガーは語っていました。

ホリガーとクルターグの音楽による対話、もう一つの例。第4曲と第5曲はアンゲロス・ジリジオス*の詩『バラに理由はない』による曲です。これはホリガーが大病で入院していたとき、生を取り戻そうと毎日1曲ずつ書いていたものの一つで、それをクルターグに送りました。ソプラノと木管楽器3種による曲です。するとクルターグは、同じ詩の引用を使い、ホリガーのハーモニーの配置を反転させて曲を作りました。ソプラノとイングリッシュ・ホルンが寄り添うようにメロディーを奏でます。それが1ヶ月後にホリガーの元に届きました。クルターグの曲は、「回復と新たな人生を祝う、喜びに満ちた歌」と、ブックレットにはありました。

*アンゲロス・ジリジオス:18世紀のカトリック神父、医者、詩人。詩の原題は“Die Ras’ ist obn warumb”。薔薇に理由はない、単に咲くから咲くのだ、自分を意識することなく、人が見ているかも気にしない、と続く。


クルターグとホリガーによるこのアルバムで、ECMのプロデューサー、マンフレート・アイヒャーが果たした役割は、小さなものではなかったように見えます。二人の作曲家と長く、深い親交を結び、作品づくりをしてきた人だからこその企画だったのでは、と想像されます。

ECMは1969年にアイヒャー他2名によって創設されたレーベルで、当初はジャズが中心だったようです。アイヒャー自身が、ダブルベースの演奏家だったからでしょうか。その後、クラシックや現代音楽、古楽やワールド・ミュージックにまで領域を広め、特異にして独自のスタイルで、精度の高い作品づくりを続けてきました。また、ビジュアル・アートにおいても、シンプルで精緻なデザインが貫かれ、1996年と2010年の2回にわたって、大部のジャケット集が出版されているほどです。

音づくりにおけるECMのコンセプトをアイヒャーは、“The most beautiful sound next to silence(沈黙の次に美しい音)”という言葉で表していますが、次に紹介するアルヴォ・ペルトは、まさにその通りの音楽づくりをしてきた人であり、またECMにとっても、1984年にペルトの『タブラ・ラサ』で始まったニュー・シリーズにより、スティーヴ・ライヒ、ジョン・ケージなど現代音楽への道が開かれました。

沈黙を育む作曲家

アルヴォ・ペルト。クラシックや現代音楽だけでなく、オルタナティブ・ロックやアンビエント、映画音楽の世界でも人気がある作曲家なので、知っている人は少なくないでしょう。わたし自身はごく最近まで知らなかったのですが。作曲家の三宅榛名さんが、子ども向けの音楽書『クラシックってなんだろう?』(とても刺激的な本!)の最終ページで、聞いてほしい50人の作曲家(とその作品)をあげていて、その中で唯一、名前を知らない人がペルトでした。

その後、気になっていたその作曲家の曲を聴いてみることにしました。『アリーナのために(Für Alina)』というピアノ曲でした。最初の2、3小節を聴いたところで引き込まれました。これはいったいなんだろう? という衝撃でした。なんでもありの今の世の中で、なんだろう、という疑問や驚きは貴重なものです。そのなんだろう、の答えが知りたくて、その後の2、3ヶ月、楽譜やペルトに関する音楽書を求め漁りました。まだ理解の途上ではありますが、少しずつ知っていったペルトの音楽の秘密について、ECMとの関係も含めて書いてみたいと思います。

『アリーナのために』を聴いたときの衝撃を言葉で説明するのは簡単ではありません。そこで耳にした音、あるいは音楽(もしそれが音楽であるなら)は、たとえば宇宙から送られてきた信号、何かをこちらに伝えようとする音の響き、連なりといったようなものでした。のちに知ったのは、これがアルヴォ・ペルトのティンティナブリと呼ばれる音楽の様式でした。
ティンティナブリという言葉は、ラテン語で「小さな鐘」を意味する言葉。この様式を生み出すに至るまでの数年間、ペルトは沈黙のときを過ごしたと言われています。ペルトは1960年代、セリエルとコラージュの技法を使って作曲していましたが、それに行き詰まりを感じてもいました。当時エストニアはソビエト連邦の占領下にありました。1968年、ペルトの合唱曲『Credo』が、当局から宗教的であるという理由で、演奏を禁止されました。そのことが契機となって、1976年までの長期にわたって、ペルトはほとんど曲を作らず、古い時代の音楽(グレゴリオ聖歌やジョスカン・デ・プレなどルネサンス時代の曲)を勉強する日々を送りました。

ティンティナブリが生まれたのは、その古楽研究の成果だと言われています。長い沈黙のあと、1976年に書かれたのが『アリーナのために』で、ティンティナブリの様式による最初の楽曲でした。ティンティナブリというものについて、ペルトはたとえば次のように説明しています。

ティンティナブリは、単純な二つの旋律から成る。一つは階段状の動き、もう一つは主要三和音の響きの中で動く。(“The Cambridge Companion to Arvo Pärt” 2012年)

あるいはこんな風にも言っています。

ティンティナブリの秘密とは、二つの旋律にある。一つは私たちであり、もう一つは私たちを支え世話をしてくれる存在。メロディー・ライン(Mヴォイス)は主観的なもので、私たちの現実であり、罪。もう一つのライン(Tヴォイス)は罪を許すもの、客観的であり、常にMを支える。(引用:同)

この二つの旋律を、永遠の二元性になぞらえて、肉体と精神、あるいは天と地のようにも言っています。なんだかかなり宗教的な考え方に見えます。確かにペルトは信仰心の厚い人で、スラブ系正教会で使われるテキストを元に、曲を書いてもいます。こういった精神性、あるいは聖なるものに対するアプローチが、ペルトの音楽を「スピリチュアル系」と捉えて支持する人々、ファンを生んでいるのかもしれません。

しかしペルトの音楽を宗教音楽、あるいはスピリチュアル系としてのみ受け取るのは、もったいない気がします。なぜクラシックや現代音楽の周辺だけでなく、オルタナティブ・ロックや映画音楽など幅広い領域で、ペルトの音楽が受け入れられているのかと言えば、非常に原初的で、シンプルの極みのような集中が、音づくりの核として据えられているからではないでしょうか。それはペルトの次のような言葉の中によく現れています。

一つの音が美しく演奏されたとき、それで充分だという発見をした。このたった一つの音、あるいは沈黙の間が、私を癒す。(同)

また、次のようにも言っています。

鐘が一つ鳴らされ、その響きに聴き入ると、音が鳴ったあとに共鳴の雲が広がる。この残響によって、我々はティンティナブリの核心へと導かれる。(同)

ペルトの音楽の秘密に触れるため、わたしは楽譜を二つ手に入れました。一つは最初に書いた『アリーナのために』(『Arinuschkaの回復を祈る変奏曲』を含む)で、もう一つはチェロとピアノのための『鏡の中の鏡』。どちらもオリジナルの版元であるEU(ユニヴァーサル・エディション)のものです。ピアノで弾いてみて感じたのは、「弾く」というより「響きの中にいる」という感覚でした。どの曲も、弾き始めから終わりまで、多くの箇所で、ダンパーペダル(右のペダル)を踏んだまま、つまり開放弦にして弾きつづけます。音が濁らないのか、と思うかもしれませんが、不思議に濁りません。

『Arinuschkaの回復を祈る変奏曲』のテーマでは、1小節目の最初の音、左手の四つの和音(ミ・ラ・ド・ミ)は音を出さずに弾くと注釈があり(これが結構難しい)、さらには「センツァ・ペダーレ(ペダルなし)」の印がありました。音を出さずに弾いた和音をそのまま押しつづけることで、(4本が開放弦となって)ペダルと似た効果が生まれ、右手が単旋律のメロディーを弾いている間、グァァ〜〜ンとかすかな響きが出るようになっています。その共鳴音は、右手が弾く音によって変化します。

これはちょっとした発明だな、と最初に弾いたとき思いました。ある種の音のデザインであり、楽器の新しい使用法と言えるかもしれません。若い頃ペルトは、エストニアのラジオ局で録音技師をしていました。音響に関する経験のようなものが、作曲の際に生きたのか。そうではなく、沈黙の時代、心の拠りどころにしていたロシア正教会の鐘の音、響きから発想されたものなのか。おそらく後者ではないかと思います。ヨーロッパには3種の鐘があり、そのうちの一つ、ロシアの鐘(ズヴォン)はカリヨンのように調律されることがなく、メロディーではなくリズム・パターンによって鳴らされるそうです。これについてペルトは次のように言っています。

精巧に造られた鐘は、不思議にして創造的な音を生む。その音は鳴り響いて私たちに届く。同時に私たちをその中に引き込む。それで自分がその響きの内側にいるとわかる。外と内は一つであり、同じである。(同)

これは正に、ペルトの曲をピアノで弾いているときの感覚です。ペルトの曲の演奏に、一般的に言うところの「表現力」とか「名人芸」はいりません。というか、そういうものはむしろ邪魔で、ひたすら耳を澄まして演奏するのがよいとわかります。ペルトの音楽の特異性と言えるかもしれません。タリン(エストニアの首都)の音楽学校の子どもたち、生徒たちが、ペルトのオルガン曲やピアノとチェロのデュオ、あるいはコーラスやリコーダーの合奏を演奏する、というDVDがあります。2枚組のDVDで、1枚目がペルトによる子どもたちとの練習風景、2枚目が練習した曲のコンサートのライブを収録しています。演奏者は皆、学生でアマチュアなわけですが、そのことが音楽性を損なうことはないと思いました。ペルトの音楽とは、そういう種類のものなのでしょう。

ごくかいつまんでの説明ですが、ペルトの音楽、ティンティナブリの特性や魅力を感じていただけたでしょうか。

最後に、ペルトとECM、アイヒャーとの関係を書きます。ペルトとアイヒャーの出会いは、最初のレコーディング曲『タブラ・ラサ』に始まります。ある深夜のこと、車を運転していたアイヒャーの耳に、ラジオから流れるこの曲が耳に入りました。衝撃を受けたアイヒャーはすぐにレコード化したい、と思ったそうです。そこからペルト、アイヒャーの二人三脚が始まり、主要作品の録音を重ねていった結果、現在25枚のアルバムがECMのカタログに掲載されています。すべての録音に、ペルトは熱心かつ実質的に関わってきた、とECMの解説にありました。

もう一つ、アルヴォ・ペルトと深い関係を続けてきたのが、前述の楽譜出版のUEです。ソビエト政府から音楽を批判されていたペルトは、1980年、家族とともにエストニアを出国しオーストリアに逃れます。その時、身元を引き受けたのがUEでした。作品を扱う権利を条件に、ペルトの市民権獲得を手伝ったそうです。“The Cambridge Companion to Arvo Pärt”にそのように書かれていました。

ペルトは21世紀に入ったころから、タリンとベルリンを行き来して暮らすようになり、2010年にはエストニアに完全帰国して、タリン近郊のラウラスマに暮らしています。今年の9月で84歳を迎えるペルトですが、Spotifyでのフォロワーも多く、自身が作る自作品プレイリストもあるようです。

去年の11月、初めてのオペラ作品『勝負の終わり』(サミュエル・ベケットの劇をクルターグがフランス語台本に書き換えた)をスカラ座で初演したクルターグ、来年にかけて各地をツアーし、今秋には80歳記念コンサートで東京オペラシティにもやって来るホリガー。ECMをベースに活躍する80歳、83歳、93歳の「ミニマルにして偉大な」作品を書く、現役の異色作曲家3人を紹介しました。いかがでしたでしょうか?

ジェルジュ・クルターグ:ハンガリーの作曲家、ピアニスト。1926年生まれ。ピアニストとしては、妻マルタと連弾によるコンサートを40年近く続けている。2012年のパリでのコンサートは、ECMのDVDに収録されている。バッハの4手連弾編曲も人気。

ハインツ・ホリガー:スイスのオーボエ奏者、作曲家。1939年生まれ。オーボエ奏者としても作曲家としても傑出していると言われる。ハンガリー出身のヴェレシュ・シャーンドルを作曲の師としており、それはクルターグの師でもある。

アルヴォ・ペルト:エストニア出身の作曲家。1935年生まれ。自身が生み出したティンティナブリ様式で曲を書き、幅広い層から人気を得ている。エストニア北西部の村ラウラスマには、ペルトの音楽情報を揃えたアルヴォ・ペルト・センターがある。

参考図書
The Cambridge Companion to Arvo Pärt:2012年9月、Cambridge University Press刊。Andrew Shenton (Editor)。
楽譜
Arvo Pärt: Variationen zur Gesundung von Arinuschka, Für Alina, Universal Edition
Arvo Pärt: Spiegel im Spiegel, Universal Edition

【クラシック音楽鑑賞伝】アルヴォ・ペルト「鏡の中の鏡」より

第4回 スティーヴ・ライヒ(前編)【20世紀アメリカの作曲家インタビュー】