エヴェリン・グレニーが聴覚障害者であることは、優れたパーカッショニストであることと関係があるのか、ないのか。演奏家が楽器を自分の手の内にしていく過程は、耳の聞こえる聞こえないに関わらず、興味深いことではあります。誰もが自分の身体的、精神的条件下でそれを取得しているなら、そこに大きな違いはない、と言えるのかもしれません。

エヴェリン・グレニー
世界各地で活躍するソロ・パーカッショニスト。1965年7月生まれ。リサイタルの他、オーケストラとの共演や鼓童、ビョークといった多種多様なジャンルの音楽家とのコラボレーションで知られる。8歳で聴覚障害を起こし、12歳でほぼ聴覚を失った。1989年に室内楽の演奏で、2004年にソロの器楽奏者としてグラミー賞を受賞。

  • インタヴューアーはシカゴのブロードキャスター、ブルース・ダフィー。クラシック音楽専門ラジオ局Classical 97で、1975年から2001年まで、1600人を超える音楽家のインタビューを行ない、1991年に米国作曲家作詞家出版者協会のディームズ・テイラー・ブロードキャスト賞を受賞しています。インタビューの日本語版は、ブルース・ダフィー本人の許可を得て翻訳したものです。

*1994年2月21日、シカゴにて

ブルース・ダフィー「彼女が話しているのを聞いて、ろう者であると思う人はいないでしょう。わたしは口まわりのヒゲを綺麗に整え、彼女の方に顔を向けて、はっきりと言葉を言うように心がけました。彼女は正確にわたしの口の動きを読み取り、わたしの質問に思慮深くウィットを織り交ぜて答えてくれました」

何が起きるかわからない、それを聴衆に見せたい

ブルース・ダフィー(以下BD):あなたは自分で調律するんでしょうか、それとも他に調律や調整を手伝う人がいるのか。

エヴェリン・グレニー(以下EG):(笑) そうね、確かにパーカッションの調律師はいるし、彼らは楽器のセッティングや楽器の面倒をみてくれる。以前には楽器の調律をやる組織があって、わたしの好みどおりに調律してくれていた。だけど1日の終わりに自分で調律するのが好きなの。自分の楽器に帰って来たって思える。楽器をよく調べて、未知の可能性を見つけようとするわけ。誰かにやってもらって使うだけというのではなくてね。どんな音が可能か、あれこれ試したいの。

BD:聴覚に障害があって、どうやって微妙な音色や音高の違いを区別するんでしょう。

EG:いい質問ね。このことのために、わたしは自分の楽器をたくさん探索することになったわね。たとえばタムタムが一つあるとして、まずヘッド*を完全に取り外すの。それからそれをまた置いて、すごく緩い状態から調整を始めるの。少しずつ少しずつそれをやっていって、どんな感じか知るのに時間を費やすわけ。そういう経験を積み重ねていく。でも自分が狙っている音がどんなかは、いつもわかってる。鳴り響くような音か、鈍い沈んだ音か、明るい音なのか、短くて鋭い音なのか、なんであれね。そういうちょっとした違い、そしてその微妙さをよく知るために、ドラムを通して自分で体験していくの。楽器とどう付き合うのかとか、倍音やハーモニーは聞こえるのか、と言う人は確かにいるわね。でもわたしは自分でやるのが好きなわけ。

*ヘッド:ドラムの上面(ときに下面にも)張られた打面の膜。

BD:あなたの演奏は聴覚と同様、触覚に訴えるものだから、聴衆にただ耳で聞くだけでなく、それ以上の体験をしてもらおうとするのでしょうか。

EG:まあ、そうね。基本的に、わたしはその場、そのときに感じたように演奏する。だから、そうね、わたしはかなり直感的な演奏家だと思うけど、それは何が起きるかわからないままに、歩んでいくっていう意味で、演奏するときには完全な自由を手にしたいからよ。自分のリハーサルでやったことを、舞台で再現することは滅多にないわね。うまくいくこともあるし、ダメな時もあるけど。(両者、笑) でもこれはパフォーマンスを決定づけるもので、ドラマにもなれば、危険な体験にもなり得ることなの。

だけどそれはある意味、演奏に開放感を与えるわけで。もちろん準備はするけど、本番では練習と違う風に演奏したいと思ってる。そうすると何が起きるか、わからずに演奏するってことになるわけ。こういう開かれた演奏を聴衆に対して見せようとしてるわね。よくよくわかっているパフォーマンスを見せるんじゃなくてね。だからわたしは心からの演奏をしてるし、今そこで生まれたみたいに感じてもらえることをしようとしてる。充分に準備して、自分がその前の数週間練習してきたことを見せる、っていうんじゃなくてね。それを説明するのは難しいけど、うまく言えないけど。

 

スネアドラムはリズムを刻んでるだけじゃないの

BD:スネアドラムで協奏曲をやるのは、あなたにとってもどかしいってことは?

EG:そう思う?!(笑) シンシナティでやるコンサートでは、二つの曲をやることになってて。最初の曲はイギリスの作曲家、ドミニク・マルドーニーのもので、彼はたくさんの楽器を使ってる。マリンバ、ビブラフォン、ブーバム、タムタム、シンバル、テンプル・ブロック、バスドラム、、、ああ、他に何があったかなあ。それ以外にいくつかアレコレあるの! その曲はとにかくたくさんの楽器がいるわけ。もう一つの曲は、まさにスネアドラム協奏曲で、アイスランドの作曲家、アスケル・マウッソンのもの。わたしの知る限り、唯一のスネアドラムの協奏曲だと思う。フルオーケストラの曲で、それに小さなスネアドラムという組み合わせ。10分程度の曲だけど、わたしのすごく好きな曲と言える。音楽としてすごいと言ってるんじゃないの。そういうものじゃないんだけど、とても効果的に書かれている。スネアドラムが音楽を奏でる楽器としてうまく使われているの。装飾的なテクニックとか、うまい仕掛けがあるってわけじゃない。そういうものじゃないの。率直で明快な曲なんだけど、すごく実直でいい演奏になるの。

BD:リズムの練習曲なんでしょうか?

EG:いいえ、幸いにもね! (笑) これは重要なポイントで、ここで取り上げるのにいいポイントだわね。パーカッションっていうのは決まりきってて、フレーズのことなど考えないって思われているでしょ。奇妙なことだけど、調律のないパーカッション、音高のないパーカッションの場合、楽譜を見るとフレーズの記号がほとんどないの。それがあるのは調律系のパーカッション。マリンバとかシロフォンとか、でもスネアドラムやティンパニー、マルチ・パーカッションにはない。なんでそうなのか、わたしにはわからないわけ! なんでそんな違いが生まれるのか、わからない。だって演奏者はいつもフレーズのことを考えてるわけだから。最初があって、真ん中があって、終わりがある、いつもね。

わたしがスネアドラムとかタンバリンを演奏するときは、いつも歌ってるの。曲がどっちに向かうかわかってるし、フレージングを強調する必要があるの。それは音高とかメロディーではない方法で、色彩のある楽器を鳴らしているわけだから。フレージングをつくるのは難しいけれど、でも演奏の中でそういった違う局面を感じることはとても重要。リズムのことばかり考えてるんじゃなくてね。だからアスケル・マウッソンは協奏曲でたいしたことをやってるって思うわけ。一つのアイディアの提出があって、テーマと言ってもいいわね、あるいはフレーズね、曲が進む中で、それが違う形で帰ってくるのを耳にする。それが曲に意味を与えるの。

BD:ベートーヴェンの序曲やブラームスの交響曲を聞きたくてやって来るオーケストラの定期会員の人に、プログラムの中でグレニーが演奏するのを聴くに際して、何かアドバイスはある?

EG:ただただやって来て、心をオープンにして聴いてほしいわね! わたしの言えることはこれに尽きる。もし気に入ったら、素晴らしい。もし嫌いだったら、それもまた素晴らしい。こういうものを楽しむべきみたいな強制はしたくない。どう受けとめるかは聴く人次第だし、聴いてみるというのが、音楽というものだと思う。

パーカッションっていうのは、あるところで爆発がある。非常に速く展開するしね。本当に素晴らしい演奏者たちがいるし、私たちは作曲家にパーカッションのための曲を書きつづけるよう励ましてきたのね。びっくりすることだけど、わたしが学生だった頃、ロンドンの音楽学校の図書館には二つの(パーカッションの)協奏曲しかなかった。いま、わたしの自分のライブラリーには200を超える楽曲があるわけ! つまりパーカッションのための曲が増えてるってこと。いまも増えつづけているしね。

「わたしは演奏するときに、靴をほとんど履かないの。その方がバネが効いて、ネコみたいに音を立てずに、楽器から楽器へと飛びまわれる」ドキュメンタリー「Touch the Sound」より

 

パーカッションは階級の壁がない楽器

BD:あなたが作品を演奏してるとき、どんなときにもう一人必要だ、と言うことになるんでしょう。一人では間に合わないみたいな。

EG:たった一度だけあったけど、それはわたしが楽譜をちゃんと見ていなくて起きたことね。本当は二人の奏者のための曲だったんだけど、わたし一人でやっていた。一人用の曲だと思ってたから、もう必死になってやってたの。なんとかやり終えたけど、悪夢としか言いようがなかったわね。(笑) 2、3日経って、友だちの一人がメモ書きを送ってきて、「エヴェリン、あの曲は二人用のものだと思うよ」って。もうそれ聞いて、ひっくり返った。いいえ、ひっくり返ったというより、スコアを破ってやろうかと思ったわね。

他にもオルガンとパーカッションのための曲があって、イギリスの作曲家、クリストファー・ブラウンが書いたもので、いったいナニこれは、ってやつで、楽器がもうたくさんなんてもんじゃなかった。一人で死に物狂いになって演奏しようとして、ついに不可能だとわかった。実際上、無理だったわけ。それで他のプレイヤーに助けてもらうことにしたんだけど、その彼がこう言ったの。「エヴェリン、ここは4人の奏者がいないとできないよ」 それくらい猛烈だったの。二人の奏者がいても、駆けまわるような感じだった。基本的にわたしは、楽譜のページめくりに気をつかうようなことはないし、楽器から楽器への移行も平気。とにかく音楽に集中したいのね。

BD:ちょっと大きな、哲学的な問題について聞かせてください。音楽の目的とはなんでしょう。

EG:そうね、いろいろ考えた上じゃないと、ちゃんとした答えは難しいけど、わたしの人生にとって現在の自分ということで言えば、音楽はわたしにとって、一つの言語だと感じてる。音楽を通じてコミュニケートできるといったね。音楽をやるのは、自分自身にとって大きな楽しみがあるのと同様、1000人、2000人といったたくさんの人に対してやることで、楽しみを感じてる。それと音楽における美しさというのは、人と人の間にコミュニケーションをもたらすことだと思う。どんな肌の色であろうと、金持ちでも貧乏でも、黒でも白でも、どこから来たかに関わらず、なんであれ問題なし。パーカッションで特に素晴らしいのは、階級の壁ってものがないこと。

パーカッションが世界中で演奏されていることは、重要な点ね。そして本当に素晴らしいパーカション奏者の中に、アマチュアの人がいることなの。ある特定の打楽器を演奏するということであったとしても、それが彼らの人生なわけ。たとえばブラジルの音楽を考えてみると、本当にすごい。あるいはスコットランドのドラミングのスタイルを考えてみると、彼らは自分の人生をそこに捧げているわけ。彼らの知ることを経験する機会が持てたら、もうそれは信じがたいこと。その日の終わりには、打楽器を演奏することで、みんなが音楽家になるの。それは同じ言葉をしゃべるっていうことなのね。それって誰にも奪うことのできないものだと思う。

 

聞こえる子ども、聞こえない子どもが一緒に学ぶ

BD:あなたは聴覚障害の人たちに、音楽を聴かせようという情熱はもってます?

EG:そうね、他の聴覚障害の人たちに、それほどたくさんは関わっていないと思う。つまり基本的に、わたしは仕事をもつ一人の音楽家に過ぎないわけで。聴覚障害の子どもたちとはたくさん活動してきたけど、いとも容易くハマってしまうところがある。それでたくさんの組織が参加を希望してきた。彼らは何ていうか、ある種のミラクルを期待してて、それはわたしが楽器を演奏できるなら、聴覚障害の人すべてが同じようにできるはずと思う。それが実態。当然ながら、そういうことは起きないってこと。もし彼らが音楽に興味がなかったら、楽器演奏にも興味がわかないの。

BD:それはイツァーク・パールマンがやったんだから、足の不自由な人だれもがバイオリンを弾けるっていうようなことと同じでしょうか。

EG:そう、そのとおり。それと同じ。それを人々に理解させることが難しいこともある。ワークショップとかマスタークラスをやるときに、わたしが何をやりたいかっていうと、聴衆が混ざっていることなの、つまり耳の聞こえる子ども、聞こえない子どもの両方がいること。そうすると彼らは互いに互いのことが学べる。でも基本的にやることは変えないの、アプローチとしてこれが一番いいと思ってる。座りたい場所にその子たちは座って、もっと音を感じるために風船を手にしたいと思う、とてもいいこと。靴をはかずに座りたいなら、それもいいこと。楽器のそばに座りたいなら、それもいいこと。リサイタルで、聴覚障害の人たちがいることがあって、彼らはステージの脇に座る。舞台の袖、端のところにね、それがぴったりくれば、よりたくさん感じることができるの。でもそうするか決めるのは彼ら、わたしは基本的に彼らのために演奏するだけ。わたしは演奏する、それだけ。

コンサートが終わったとき、みんなそれぞれの聴き方をしてるのね。わたしこうは言わない。「いい、あなたたちはマリンバがどんなものか体験したのよ」とか「あなたたちはドラムを体験したのよ」とはね。それはわたしがどんな風にマリンバを、ドラムを体験したかに過ぎなくて、聞いた人は自分なりの受け止め方をするべきなの。聴覚障害の人の中には、高い音は聞こえるけど低い音はあまり聞こえないという人もいれば、その反対もいる。わたしたちはみんなそれぞれ違う聞こえ方をしてる。どう聞くかということを言う立場にわたしはいないの。わたしは聴覚学者ではないわけで、わたしはわたしっていうだけ。わたしはたまたま耳が聞こえなくてたまたま音楽家になった、そしてたまたまパーカッションをやっている、たまたま茶色の髪を持ってる、っていうようにね。

BD:あなたの演奏、音楽を私たちに分けてくれて、どうもありがとう。

EG:こちらこそ、ありがとう。

BD:今日、こうしてわたしと話をしていただいたこと、感謝してます。

EG:あら、わたしも楽しかったわ。