ロシアの偉大な作曲家セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)。彼の生み出した曲は、どれも重厚感を持ち、繊細で、聴くものの心にずっしりと響いてきます。

さて、そのラフマニノフの人となりってご存知でしょうか?気難しがり屋だったとか、いつも不機嫌そうにしていたという話を耳にしたことがある方はいらっしゃるかもしれません。しかし、いつもいつも不機嫌そうな顔をしていたわけではないのですよ。ラフマニノフもキュートに笑う時はあったのです。

今回は、あまり知られていないラフマニノフの素顔について、ラフマニノフの家族や友人とのエピソードも交えてご紹介していきます。

ラフマニノフの恋愛エピソード

映画「ラフマニノフ ある愛の調べ」のベースにもなっているのですが、ラフマニノフはかなりモテたと言われています。2m近くあったとされる長身、端正な顔立ち、そしてラフマニノフが生み出す甘い旋律が、ロシア中の女性を虜にしていたという話も残っているぐらいです。しかし、当の本人は女性たちほど熱烈に恋愛をしていたわけではないようです。芸術家なのだから、恋の1つや2つはあって当然といった具合だったのでしょう。

そのラフマニノフは、幼少の頃より仲良くしていた従兄弟のナターリヤを伴侶として選びます。しかし、ここにきて難問が立ちはだかります。それは、従弟同士の結婚は認められないというものでした。ロシア正教会の法規によると、第一従兄弟に当たる従兄弟同士の結婚は原則禁止となっています。第二従弟、すなわち又従兄弟やはとことの結婚に関しては禁止されていないのですが、ラフマニノフとナターリヤは第一従兄弟同士だったため、結婚するにも一苦労したわけです。この結婚は、司祭を良く知る、ラフマニノフの叔母の助力によって成立にこぎつけます。そして、晴れて1902年にラフマニノフとナターリヤは結婚しました。

ところで、ラフマニノフとナターリヤが婚約発表を出した時、ラフマニノフには別の女性がいたと言われています。この女性の名前もナターリヤと言いました。2人は頻繁に文通をしていました。中には秘密の打ち明け話なども含まれていたようです。この文通は10年以上も続いていたそうなので、ラフマニノフが別の女性と婚約してしまったことを知ったナターリヤは、相当なショックを受けたのではないかと言われています。

ラフマニノフに癒しを与え続けた2人の天使

ラフマニノフには、2人の娘がいました。1903年に生まれたイリーナと、1907年に生まれたタチアナです。2人の愛くるしい笑顔と可愛らしい歌声に、疲弊しきった心が癒されるんだと、ラフマニノフ自身が語っていたそうです。

公に「イリーナのための曲」、「タチアナのための曲」というのは作られていませんが、イリーナが生まれた直後に作曲された、「前奏曲集 作品23」に収められた数曲は、イリーナのために作られたものなではないかと言われています。

ラフマニノフの良きライバル

ラフマニノフの人間関係を話す上で欠かせないのが、アレクサンドル・スクリャービンでしょう。ラフマニノフとスクリャービンは、モスクワ音楽院で同期でした。2人はその頃からのライバル同士。卒業試験でも、2人の間で最優秀賞(1位)と優秀賞(2位)が争われたのです。結果は、ラフマニノフに軍配が上がりました。

作曲家としても、ピアニストとしてもライバル同士であった2人は、卒業後も切磋琢磨しながらお互いの道を突き進みました。そして、スクリャービンが若くして死んでしまった時には、ラフマニノフはお葬式でスクリャービンの棺を担ぎ、彼の曲を演奏したのです。その後の演奏会では、レパートリーにスクリャービンの曲も増やしています。

常に比較され続けたラフマニノフとスクリャービンの間には、友情なんて無かったと言われることもあります。しかし、スクリャービンが去ってからも彼の曲を輝かし続けるために、コンサート曲のレパートリーにスクリャービンの曲を取り入れるという気遣いを見せたラフマニノフには、スクリャービンに対する尊敬と友情が感じ取れます。

ラフマニノフの親友

ラフマニノフの一番の親友とも言えるのは、オペラ歌手のフョードル・シャリャーピンです。2人は、ラフマニノフがマモントフオペラを指揮した時に知り合いました。

シャリャーピンは、ロシアを代表する優れた歌手でしたが、知らない方も多いでしょう。「シャリャーピン・ステーキなら知っている!」という方、実はその名前の由来になったのがフョードル・シャリャーピンなんですよ。それは、1936年にシャリャーピンが日本を訪れた時のこと。帝国ホテルで柔らかいステーキを注文したシャリャーピンのために作られたステーキというのが、今で言うところのシャリャーピン・ステーキだったのです。

それはさておき、話を元に戻します。シャリャーピンの持つ野太いバスの声は、いかにもロシアの声といった感じだったのでしょう、この声にラフマニノフはぞっこん惚れ込みます。それで、シャリャーピンのための曲をいくつも作曲したのです。ラフマニノフが作曲した数少ないオペラはその代表例です。

シャリャーピンの人となりも気に入っていたラフマニノフは、シャリャーピンと会える日をいつも心待ちにしていたと言います。シャリャーピンは、唯一ラフマニノフを笑わせることが出来た人物だとも言われています。シャリャーピンと一緒にいて、楽しそうにしていたラフマニノフのことを「6フィートのしかめっ面が笑った。」と表現した人物も居たぐらいです。

ところで、ラフマニノフは様々な心配事やストレス、過度なコンサートスケジュールから体調を崩すことも多くありました。特にロシア革命後に亡命した先のアメリカでは、ロシアに帰れないことのストレスとアメリカに馴染めないことのストレスで、かなり体調が悪かったとされます。シャリャーピンもラフマニノフが亡命してから数年後にロシアを出て、パリに亡命しました。しかし、体調が思わしくないことを手紙に書いてくる友人のことが心配で、アメリカでのコンサートを組み、頻繁にラフマニノフを訪ねるようにしていました。

シャリャーピンと古き良き時代のロシアを語ることで、ラフマニノフは音楽への前向きな姿勢を維持できたと言います。また、シャリャーピンの話の中に現れるロシアを感じ取ることで、作曲することも出来るようになったそうです。

つまり、アメリカで作曲活動が出来ずに苦しんでいたラフマニノフを支えたのは、他ならぬシャリャーピンだったのです。

まとめ

いかがでしたでしょうか。ラフマニノフは、社交的な人物でもなく、そこまで広い交友関係は持っていませんでした。しかし、数少ない友人、知人はとても大切にしていたことが伺えます。そして、その誠実さと優しさは、ラフマニノフの音楽の旋律からも滲み出ているようです。

作曲家の内面や人間関係を知ることで、作曲家の新たな一面が見えてくることはよくあります。今度ラフマニノフの音楽を聴く時がありましたら、ラフマニノフのこんな一面をイメージして聴いてみてください。今までとは違った音楽の楽しみ方が出来るかもしれませんよ。